日本音楽即興学会(JASMIM)2011大会報告


去る4月末に『即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア』を上梓された佐々木敦さんをお招きして、同著に関する講演と質疑応答を行います。


【講演者】
佐々木敦(Atsushi SASAKI)
批評家。HEADZ主宰。雑誌「エクス・ポ」「ヒアホン」編集発行人。早稲田大学、武蔵野美術大学非常勤講師。映画・音楽から、文学・演劇・ダンス・思想など多彩な領域で批評活動を展開。(amazonより引用)


【同著紹介】
(朝日新聞2011年6月26日、書評・奥泉光より抜粋引用)
デレク・ベイリー、大友良英といった先鋭的演奏家の仕事、および日本の現代演劇に即しつつ、驚くべきことの出現という即興の理念の実現可能性を理論的に探求して行く。・・・本書の探求は、・・・「反復」をめぐる思考へと人を誘うだろう。


【報告】

2011年9月17日(土)



初めまして、佐々木です。


1時間ちょっと位しゃべって、その後、質問が受けられれば、と思います。日帰りで帰ろうと思っているので、終わったら早々に失礼させていただくと思います。


最初に、この場に招いていただきました日本音楽即興学会のみなさんにお礼を申し上げたいと思います。2時過ぎ位でしたか、会場に着きまして、もう柳沢(英輔)さんの発表の途中だったと思います。それからラウンドテーブルもずっと拝聴していまして、非常に活発な議論が、いろんな問題が、既に出てきている感じがして、自分も、話に入りたいような気が、いろんなところでしましたけれども、そうすると、しゃべる前にしゃべり始めてしまう、みたいな感じになりますので(笑)ちょっと遠慮させていただきました。


今ご紹介いただきましたように、ぼくは、この4月に『即興の解体』という本を出しました。これはユリイカという月刊誌に3年間に渡って連載をしたものです。ほぼ全く手を加えることなくそのまま本にしました。


タイトル通り、即興を扱っている、ということで、この場に招いていただいたわけなんですが、この本には即興演奏論、即興演奏に関するぼくなりの考えを書いたものであると同時に、演奏、音楽からもう少し拡張して、即興という行為がいったいどういうものであるのか、ということを自分なりに考えようとした結果、前半は音楽のことなのに、後半は演劇の話になってしまう、という、非常に変わった構成になってしまいました。


自分自身の中で、ぼくは、音楽雑誌であるとか、音楽レーベルであるとか、そういったものを、90年代から自分のレーベルなどでやったりもしていまして、主に音楽に関して比較的長めの文章、あるいは本とかも出させていただいてきたんですけれども、即興演奏、フリー・インプロヴィゼーションとか、フリー・インプロヴァイズド・ミュージックと言われるような音楽について、ある程度の長さ、ある程度まとまったものを書きたい、という気持ちは、かなり長く持ってたんですね。かなり以前から持っていました。


この本『即興の解体』の後書きにも、宿題みたいなものだった、みたいなことが書いてあるんですけれども、実際そういう感覚がありまして、ぼくが音楽に関して書いた本などを読まれたことのある方が、この場にどれ位いらっしゃるかわからないんですが、ぼくは、テクノとか、後にエレクトロニカと呼ばれたりするような所謂、電子音楽とか電子音響といわれるような音楽、それから、それに深く関わったコンピュータを使って音楽を演奏したり作曲したりするようなものに関して、ある長さの文章を過去に書いたことがあります。


それから、音楽あるいは音による試みとアート・芸術との関係、つまりサウンドアートと呼ばれる、サウンドアートという言葉で称されるような営みについても、比較的長めの文章、本を書いたことがあります。


そしてインプロヴィゼーション、インプロと訳したりしていると思うんですけれども、そのインプロについての文章を書いたものが、この本であるわけなんですけれども、今あげた、電子音楽的なもの、サウンドアート的なもの、インプロ的なものが、自分の中では、音楽の中で強い拘りを持って、一リスナーとしてもそうですし、あるいはレーベルをやったり、イベントをやったり、そういったことをするということのものとしても、強い拘りを持ってきたジャンルなんですね。


気づかれる方も多いかと思うんですけれども、今あげた3つの音楽の形態というか、スタイルというか、は、それ以前からもちろん、どこから出発点を置くかということは、それぞれ見方があると思うんですけれども、ぼくが書いてきたことというのは、もっぱら90年代的な試みです。1990年代に、この3つのジャンルのものは、とりわけ大きな変化、こう言ってよければ、発展進化をとげた、というのがぼくの理解で、しかも、それらのものは相互に非常に影響を与え合っていると。


例えば、テクノ、エレクトロニカ、電子音楽と、サウンドアートと、インプロヴィゼーションをつなぐ一つのキーフレーズとして、音響派という言葉が90年代にありました。音楽を音響、音の響きという観点から見直すというようなことが90年代にあって、なぜそれが90年代に問題にされたのか、もともと、そういった問題は音楽の始まりから、最初からあったようなものだと思うんですけれども、それが90年代にもう一度問題になったということが、いったいどういうことか、というに関しても、過去の本で書いたりしました。


その中で、サウンドアートと電子音楽に関しては自分なりに、自分が考えられるのはこの程度であろう、というような意味で、本を出すという形で決着をつけた、という感覚があったのです。


インプロに関してだけは、なかなか出発することができなかったんですね。それで、いつまでも宿題を残しているのもよくない、ということで、雑誌連載という形で始めたのが、この本になった『即興の解体』という連載だったわけです。


しかも、それは、さっきも述べましたように、まる3年かかってしまいまして、なかなか難産だったと言えば、難産だったなあ、と思います。


こういう即興音楽、音楽における即興の行為というものを、学術的に問題にされているこういう場に、ぼくが出てきてしゃべるということに、どの程度妥当性があるのか、というに関しては、歳森さんからご連絡いただいたときに、ちょっと悩んだりもしました。


ぼくは、かなり即興演奏、即興ということに関して、ある特殊なアプローチの仕方をしているだろうな、と自分でも思うのです。ただ、もともとの出発点というのは、フリー・インプロヴィゼーションと言われる音楽が、一リスナーとして非常に好きで、足しげくコンサートやライブなどに通ったりする中で、自分なりにいろいろ考えることがあった。


それは、もっぱら90年代位に始まったことですけれども、90年代に始まって今は2011年ですから、20年以上になるわけですけれども、その中で考えたことを、まとめてみたということなんですね。


何で即興演奏、インプロヴィゼーションというものについて、自分なりに考えてみたい、そして考えたことを言葉にしてみたい、というふうに思ったのかというのは、これは即興演奏、即興音楽と言われるジャンルにおいて、紛れもないオリジネーター、というか、パイオニアであり、ビッグネームですから、この中でご存知ない方はいらっしゃらないと思いますけれども、やはりデレク・ベイリーというイギリスのギタリスト、彼にはインプロヴィゼーションという有名な本もありますけれども、デレク・ベイリーのこと、それから大友良英さん、






そして杉本拓さん、90年代の試みに刺激された部分が非常に大きいです。ぼくは大友良英さんが、今ではかなり明らかになっていることですけれども、以前、彼は高柳(昌行)さんの助手をしてらして、ただ、それを表沙汰にすることはないまま、どちらかと言うとターンテーブル奏者という形で、90年代の頭に、いきなりシーンに出てきたわけですけれども、その彼が『WE INSIST?』というファーストソロアルバムを出した間もない位ころに、インタビューをさせていただいて、それから大友さんがやっていかれたことを、一リスナーとしてずっと見守ってくる中で、みなさんご存知のように、90年代後半に大友さんはかなり大きな変化をとげていくわけですけれども、そういった変化、ターンテーブルなどを使ったサウンドコラージュ的な、あるいはノイズコラージュ的な試みをしていたミュージシャンが、むしろ一つの音であるとか、聴取の問題であるとか、そういった方向に急激に転回していくのが、1997年、98年位からの出来事だと思うんですけれども、それに強い刺激を受けました。


いったいどうしてこのような転回が起きるのか、ということが、ぼくには非常に考えるに足る問題だと思ったわけですね。


それと同様に、デレク・ベイリーが切り開いたとされるインプロヴィゼーションという問題が、40年位ですかね、の歴史を持っていることになると思うんですけれども、いったいどういうような変化をしていくのか、インプロヴィゼーションというものが持っている本質、というか原理というか、いったいどういうことなのか、ということを考え始めたのも、90年代に即興演奏と言われる分野の中で、従来の即興演奏、従来のインプロヴィゼーションというふうに呼ばれたものの中から、従来のインプロヴィゼーション的なものからは、かなり違ったモーメントが、いくつも出てきた、ということが大きかった、というふうに思います。


それで、その問いのきっかけになったことを、いくつかあげてみると、もっぱら、ぼくは演奏家じゃないので、自分自身がこういうインプロヴィゼーションと呼ばれる音楽の聴衆の一人であったり、あるいは、CDなり録音物をきくリスナーとして、いろいろ考えたこと、ということになるんです。


まず第一にインプロヴィゼーションのライブに足しげく通っていると、インプロヴィゼーションというのは正に即興ということなので、その時その場で生成される、その時その場で起きる音楽、生まれてくる音楽ということであるはずであるに関わらず、そのように称され、インプロと呼ばれている演奏の場に、ある程度の回数通っていくと、既聴感がどんどん生じてくるということが起きるんですね。


インプロヴィゼーションであるにも関わらず、ある種、おなじみのフレーズといいますか、おなじみの展開みたいなことが起きてきて、ある意味では、演奏家も聴衆もそういった一種の既聴感的なもの、デレク・ベイリーが拒否しようとしたようなイディオム、彼の『インプロヴィゼーション』の冒頭で取り上げられているようなイディオム。(それに反して)ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションという言い方をベイリーはするわけですけれども。


イディオムというようなものはインプロと言われる分野の中にも、やはりどんどん成形されてくる、少なくとも自分はそのようなものをきき取ることができる、ということが、起きてくるわけですね。


それが、いったいどうしてそうなるのだろうか、むしろ、そういったことは、即興と呼ばれる試みの意味からすると真逆なんじゃないのかな、という疑問がありました。


にも関わらず当然のことながら、それが恐らく避けがたいことであるんだろうな、という気持ちもあり、そこの部分をまず、どうやって自分の中で処理するのか、ということが問いの一つとしてありました。これが一番大きな問いだと思います。


それから、例えば、とりわけ90年代の後半以後、これはいろいろ問題を含んでいる言い方かもしれないんですけれども、音響的即興という言い方がされるようになって、つまり、フレージング的なものではない、音の響きを主体にしたような即興演奏を音響的即興と呼んだりすると思うんですけれども、音響的即興と呼ばれるような演奏の場合、CD、つまり録音だけできくのと、その演奏が行われる場にいて、視覚的な要素も含めて、その演奏を体験するのとの間に、すごく大きな差異があることがあるな、と思ったんですね。


これは簡単に言ってしまうと、例えばCDにしてしまうと何で演奏しているか全くわからないような演奏、というのが90年代後半とりわけ頻出してきたわけです。


実際この本の中でも触れていますけれども、ぼくが実際に見たインプロヴィゼーションのコンサートですと、アコーディオン奏者がアコーディオンを1回も開けることなく、指でその表面をこすってみるだとかですね、そういうようなことがCDになると、その音はいったい何なのか全くわからない、けれども演奏楽器はアコーディオン、というふうに記されるわけですね。


そういった耳だけできく、ということと、耳と目、あるいはそれ以外の感覚器官も込みで体験する、ということの間で、かなり決定的な違いが生じてしまうといったときに、音楽あるいは、きく、ということの位置づけということを、もう一度再考しなければならないのではないか、少なくとも即興演奏と言われるものの中には、ある種の極限値に触れるような試みが出てきてしまった、ということが、もう一つありました。


それから、もう一つは、即興演奏を行っている、即興演奏家であった人たちが、即興の即興ならではの部分を問うていく過程の中で、否応なしに作曲的なものに接続していく、という現象が90年代後半に、とても多く見られました。


これはさきほど名前をあげた杉本拓さんなんか、かなり典型的にそうだと思うんですけれども、即興演奏をきわめていこうとすると、いつの間にか、ある種の作曲のようになってくる、ということの問題。


実際、音響的即興と呼ばれるような言葉で呼ばれるような方々は、即興と作曲という言い方、即興と作曲という概念というものに、本質的な区別をあんまりつけていないんじゃないのかな、という気もしてくるんですね。


そうすると、そこの部分の中でもう一度、さきほどと同じような問い方ですけれども、即興と作曲がある部分で区別がつかなくなっていく状況の中で、即興という概念というものを、もう一度、つまり作曲ではない即興ということを、どのように切り出すことができるのか、ということを考えたいと思ったわけです。


今言った3点が、主に『即興の解体』を書こうと思ったときに、問いとしてあったものなんです。


それをこういった本にするための文章として書いていくに当たって、今もかなりそんな感じですけれども、即興を問題にしているので、やはり即興的に語りたいということがありはするんですが、この本に関しては、最初の目論見としては、即興演奏について語る自分なりの思考というものは、できる限り形式的にアプローチしたいと思ったんですね。できる限りガチガチに論じてみようと思いました。


というのは、どうしても、即興演奏のある種の問題は、すごく柔らかい言葉で言うと、ある種の気分であるとか、ある種の感情の動きみたいなものに支配されてしまう部分があって、そうすると、それを他者が客観的に、いったいなぜそれが、そのようなことになったのか、ということを論じることが、なかなか難しくなってしまう部分があると思うんですね。


実際、この本『即興の解体』前半部分も、それに近い結論に、結果的になってしまっているんですけれども、






ぼくとしては、できる限り、正に即興という行為そのものが、一種のプログラムというか、誰もが使えるような、ある方法論というものに、プログラムと呼んでもいいですし、例えばアルゴリズムと呼んでもいいですけれども、そういったものになって、それを使うと、そのインプロヴィゼーションの主体の資質とか、あるいは演奏技術であるとか、そういったものと全然別に、インプロヴィゼーションのインプロヴィゼーションらしさというものが自然に出てくる、そういったプログラムを考えることができないだろうか、というのが、ぼくの中で一つの目標としてあったのです。できる限り、形式的に論じたいなあ、というように思いました。


なので、実際にこの本を書くに当たっては、最初の時点で、かなり設計図的なものと言いますか、メモ的なものも、相当作った上で出発したんですけれども、その結果どういったことになったか、というと、一番最初に出ている結論に最後もう一回たどり着くということになったんですね。


しかも、この本を読んでいただくとわかると思うのですけれども、最後まで読むとわかると思うんですけれども、ある意味、最初にそうなると予告されている、という本になっているんですね。


自分としては、形式的に、即興というものの可能性と不可能性というものを、自分なりのレベルで解析したいということがあり、そうできるはずだ、という、自分の目論見として始めました。


実際、月刊誌ですから月々締切がくるわけですけれども、書いていくと、だんだんしんどくなってくるんですね。非常に、何というんですかね、無理ということを言うために、延々論理を尽くしているような感じがしてきて、自分でも書いてきながら、非常に息苦しくなってくる。


同時に、それって最初からわかっていることじゃないですか、というような気持ちも自分の中にあって、それで、締切が近づいてくると体の調子が悪くなったりとかですね、ということがけっこう起きていたわけです。


これホントに楽屋話みたいになってしまいますけれども、この本は先ほどもいいましたように、連載を終えてすぐに本にしているので、1章分が1回分なんですね。


これ、読んでいただいた方はわかるんですけれども、1回の分量がもすごく差があるんですね。すごく短い時もありまして、それは内容の流れと無関係に、ぼくが苦しい思いをしてきた、というのがそのまま現れていて(笑) そこの部分は結果的に即興的になった、ということがありました。


そういった形式的に、あるいはロジカルにインプロヴィゼーションを論じようと思って始めた連載であったにも関わらず、連載という行為が、月々書くという運動性の中にあるので、むしろ即興的な様相の方が、書き方が合っているんじゃないかな、という思いがだんだん芽生えてきた。


それで、どこかで一回この話の流れを切って、前半の最後に、離陸、テイクオフと書いてあるんですけれども、どこかでテイクオフしないと、続けられないな、という気がしたんですね。


その時に、演劇、ぼくはこの5-6年位ですけれども、かなり集中的に舞台を見ていて、これは演劇だけじゃなくてダンスとかもそうなんですが、そういったものを見ることで得た刺激というものが、自分の中で、どこかインプロヴィゼーションと言われる音楽から感じた刺激と似通っている、どこかで通底しているという気持ちがあったので、その通底しているものがいったい何なのか、という気持ちもありました。


本当はもっと自然にインプロヴィゼーションの、こういう言い方は何ですけれども、即興演奏、インプロヴィゼーションと言われる音楽は、音楽と言われる分野の中でも、かなりマイノリティーと言いますか、マイナーな分野だと思うのです。


ぼくはもともと、そういった世間一般からするとマイナーだと思われているようなジャンルから、むしろ一般的原理的普遍的な問題へと押し広げていく、ということを今までもやってきたんですね。


インプロに関しても、そういった形でやりたいと思っていて、後半特にそうなっていますけれども、音楽あるいは演奏ということだけじゃない、もっと広い意味での即興というものを問う、ということで、もともと演劇やダンス、あるいはさらにそれ以外の分野に関しての即興、そういった分野と即興という試みの関係性についても、もっと自然に話が広がっていく、というつもりでいたんですね。


でも、それは即興音楽について自分が考えていることを、形式的論理的に書こうとすることだけでもかなりしんどい、ということがわかりまして(笑) そこにさらに他の要素を混ぜていこうとしても、ちょっとこれ難しいな、ということで、一回完全に音楽の話だけにして、それを一度終了して、演劇の話を改めて始める、というやり方になったんですね。


その結果として、この本はかなり変な本になってしまったわけなんですが、それでも、今言いましたように、ぼくの中では例えば、音楽と演劇というものが、読みようによっては、ホントに全く違う話にいきなりなってるみたいな、しかも、タイトルも、雑誌の連載時には、音楽の方は、壊す方の解体になっていて、演劇の方は、コンセプション、孕む方の懐胎になっていたので、ある意味で違う連載みたいになってしまっているんですけれども、それでも、ぼくの中では同じ問題を問うている、同じことを問い続けようと思うと、音楽の話だけじゃなくなってしまう、そうじゃないと、どうしてもその問いを続けられない、そういう気持ちがありました。その結果として、こういった本になったんだろうな、というふうに思います。


じゃあ、『即興の解体』という本が主張している即興についての考え方というのは、読んでいただければ、ある意味ではしつこいほどに、同じことが書いてある本ですので、そのことを今から、もう一回言葉で言いなおすのも、無粋だなと思っているのです。


結論的な部分としては、あるいは冒頭から表明されている結論という意味では、即興というものは不可能なのではないか、ということが、この本では主張されているように読めると思います。


即興というものを純粋に問おうとしたときに、いったい本当の意味で即興、つまり本当の意味で、今、正にその瞬間に、それが起きる以前までは、誰一人として思いがけなかったような出来事がずっと連鎖していく、という意味での即興というのは、不可能なのではないか、ということが、この本では主張されているように読めると思います。


実際に、そういったガチガチに厳密に原理的に捉えなおした即興というものをやろうと思っても無理だ、ということの証明を、いろいろな例を出して、手を変え品を変え書いているのが、この本であると読めるのではないかなあ、というように思います。


そういったこともあって、この場に来るのもどうなのかなあ、という気持ちがなくもなかったのですが(笑) ただですね、これは言っておかなくてはならないんですけれども、しかも、ある意味では直接的な形でこの本に出ているわけではないと思うんですが、この本の、今言ってきたことの、なぜぼくが即興というものを問題にしているのか、なぜぼくが即興というものが気になるのか、音楽のことだけじゃなく、あらゆる試みの中における即興的なことに、何で自分はこんなに捕らわれているのか、ということの意味というのは、この本の冒頭に記されています。


   本論の究極的な目標は次の問いに答えること、少なくとも答えに
   漸近するべく試みることである。

   驚くべきことはいかにして起こるのか。

この後、驚くべきことを、予期しないこととか、何でしたっけ、意想外のこと、全部同じ意味ですけれども、言い換えたりとかしてるんですけれども、驚くべきことがどのようにして起こるか、というに自分は興味があるんですね。


ぼくにとって即興というものは、即興の主体、即興の受け手が、不断に驚き続けることができるような試み、というふうに捉えているわけです。


ところが、それを意識的にやろう、意図的に驚きがずっと連続していくようなことを行おうとすると、どうしてもそれは不可能なように思えてしまう、どうしてもできないような気がしてくる、ということを書いてあるわけですね。


で、その結果、そういった、






正にその時その場で起きる出来事、あるいは事件としての即興というものを、先ほども言った言葉で言うと、プログラミング的に引き起こすということが、どれほど不可能なことであるのか、ということを延々と論じたあげくに、まだ可能性があるとしたら反復の方にしかないのではないか、というのが後半でてくる話題なんですね。


むしろ、絶えざる差異の産出というものをプログラム的に形成しようと思うと、どうしても無理が生じるので、問題を全く逆さまにして、むしろ、ひたすら繰り返す、ひたすら同じことをやるということの方の不可能性としての差異、というものに注目するのが、即興のコンセプション(即興の懐胎)の方の結論のようなものだったんですね。


この連載の最後、演劇の話、ダンスの話になって、ある同じ動作をひたすら繰り返し続けるようなタイプの身体的な挙動の中に、むしろ本人が意図せざるような部分を含めての一種の誤差的な形での差異が出てくる。


そういった差異の部分というのが、むしろ、予期せざるものではないか、意図せざるものではないか、というような論旨になっているんですね。


そこで終わっています。これは今初めて、この本に関して言うことですけれども、ぼくは、はっきり言って、この結論に非常に不満なんですね、自分自身では。


この結論は一つの答え方ではあるけれども、まだ他に答え方があるはずだ、まだ答えはあるはずだ、というふうに思っているんです。


それは、驚くべきことはいかにして起こるのか、と言ったとき、驚くべきことをひたすら引き起こし続けるということのは不可能だ、ということを証明しているようにこの本は見えるけれども、本当はそれが、もし起こせるのであれば、起こせる方法を知りたい、というのが、一番最初の動機なんですね。


ところが、それは非常に難しいわけです。ぼくは、基本的に音楽だけじゃなくて、驚くべきことはいかに起こるのか、と書いてありますけれども、驚きたい人間なんですね。驚きたくて、驚かされたい人間であるわけです。


それは、すごく素朴な、例えば好奇心といった言葉で呼んでも別にいいと思うんですけれども、常に、大げさな言葉で言うと、常に、世界にはまだ自分にとって、未知なる物が、未知で多少とも刺激的なものが潜在している、あるいは生まれつつある、という希望を、もういい歳になる今になっても捨てていない人間なんですね(笑)


驚くべきこと、というのは、ものすごく驚くべきことでなくても別にかまわないんですね。それは大そうなことでなくてもかまわない。それはホントにホンのわずかな差異みたいなことでもいいわけです。


むしろ、驚きを生じさせる出来事の大きさとか、派手さとか、そういったものよりも、驚く側の感性、というものの方が多分重要だと思うんですね。なので、驚くべきこと、というのは、別に






そんなにホントの意味でびっくりするようなことでなくてかまわない。


もしホントにびっくりするようなことが次々と起きてくれれば、それはそれでいいというか、それ自体を否定するつもりはないんですけれども、そうでなくてもかまわない、と思っているわけです。


この本が出たのが4月なのですけれども、驚くべきことはいかにして起きるのか、という問いから始まったこの本の、作業していたのが、正に3月11日以降のことだったのです。最初から4月に出ることは決まっていたんですけれども。3月11日の大震災があって、延期するのかな、と思ったのですが、延期にならず、かなり混乱した状況の中で本作りをしたんです。


驚くべきことはいかに起きるのか、という本が出たときには、もうホントに驚くべきことが起きてしまっていまして、ホントに、よく言われた言い方で言いますと、想定外の出来事が起きてしまった直後で、そういった状況の中で、取りようによっては、とてもみみっちい驚くべきことの話をしているこの本が、世に出ることがいったいどうなんだろうな、という気持ちがなくもなかったんです。


ただ、そういった状況の中で本が出たわけですし、ぼくの中では即興ということと、驚くということは、かなり深いところで結びついているのですね。


最初に、インプロのライブに通っていると、既聴感がどうしてもが起きてしまう、という話をしましたけれども、これはこの本の中にも書いてあることですけれども、単純に避けがたいことであるわけです。


それは、やはり時間はどんどん流れていくということと、演奏する側も、演奏をきいている側も記憶というものが存在しているからですね。どうしても記憶というものの中で、ある種の参照という行為が起きてしまって、例えそのようなつもりでなかったしても、今正に起きたことが過去に起きたことと、どこかしら似通っているということが起きる、ということなのですね。


つまり、一度起きた、ということは反復されうる、ということだと思うわけです。それは避けがたい。


とすると、本当の問題は、先ほど、反復の方に逃げる論理でこの本は終わった、と言いましたけれども、反復の方に逃げないで、この問いを続けるためには、一度起きたことが反復されるとすると、一度起きるということの、一番最初に起きる時というのは、いったいどのようにして起きるのか、ということになってくると思うわけです。


これはつまり、さっきの即興の不可能性というものは、にも関わらず、われわれはしばしば、みなさんも即興演奏されている方がかなり多いと思うんですけれども、ご経験があると思うんですけれども、自分がやるつもりではなかったことをやってしまう、ということが、演奏の現場の中では起きていると思うんですね。


これは話がずれる、というか広がりますけれども、ぼくは批評家という立場でいろんなジャンルについて批評しているんですが、あらゆるジャンルのアーティストというか表現者に関して、これはもしかしたらある種独特な考え方かもしれないんですけれども、ぼく独特な考え方かも知れませんが、思っていることがあって、それは、本当にすごい表現者は、自分が何をしているのか、言葉ではわかっていない、ということなんですね。


つまり、こうするつもりでできる、ということは、ぼくは、ある意味では、タカが知れている、という言い方をしてしまうと、ちょっと強い言い方ですけれども、というふうに思っていて、むしろ、才能とか天才とか、そう言った言葉はあまり使いたくないですけれども、そういう人じゃなくても、人はある種の何らかの表現行為、あるいはクリエイションを、あるいは単に行為でもいいですけれども、をしているときに、自分がするつもりでなかったことを不意にすることがあるんですね。


不意にすることがなぜ起きるのか、というのは、いろんな理由があると思いますけれども、それは実際にホントに起きているわけです。


つまり、即興演奏の現場でも、先ほど寺内(大輔)さんの耳の音楽の時にもですね、耳の音楽がとても面白いなと思ったのは、自分しかきこえていない、けれども自分にとっていい音楽、自分にとって素晴らしい音楽を探す、という行為をするということだったんですね。


それは例えば、自分の中でこういう音楽を奏でたいとか、こういう音楽がいいな、というのが予めあって、それをどういう指の動かし方、どういう耳への触れ方をしたら鳴るかしら、というふうに考えているだけじゃないと思うんですね。


むしろ指が耳に触れている、ある意味、きくということと全く無関係な指の動きのなかで、なんか突然鳴ってしまった音が、あれなんか、気持ちいいな、というか、今までずっと指で耳を動かしていたけれども、こんな音鳴ったことなかったな、とか、そんなことが起きることが面白いと思うんですね。


どこかで、何だろうな、自分の中で、ある種、エステティックな意味での音楽の理想形みたいなものがあって、その理想形にいったいどうやったら現実的具体的にたどり着くことができるか、という問いも、もちろん重要だと思うんですけれども、むしろ本当に面白いことというのは、その先にあるんじゃないかな、と思っているわけです。


つまりマエストロ的なインプロバイザー、イギリス人とかによくいますけれども、恐らく完璧に自分の楽器をコントロールすることができていて、こういう音を出そうと思ったら何でも出せてしまう、というような、すごい演奏家、つまり演奏技術というレベルで見ても、ものすごい人というのは多数いると思うんですけれども、問題はどんな音でも自分が意図したものを出せるからすごいんだ、ということじゃないと思うんですね。


むしろそういった人であるからこそ、その先というか、自分が、ある意味、反復、再現することができないようなことが突然できてしまうことがある、あるいは、できる、という言葉もちょっと強い言葉かもしれなくて、そういうことが起きてしまうことがある、ということが、ぼくにとってとても面白いことなんですね。


そういったことを考えたい。とすると、それが起きること、というのは、何かが、今までなかったものが始まっている、ある意味で新しい音楽が生まれている、新しい何か表現がその場で突然生まれている、つまり、生む気でやっているわけじゃなくても生まれるときがある、ということが、考えたいことなんですね。


つまり、これは音楽の始まりみたいなものであるわけです。音楽が突然生まれてくる。


例えば、インプロヴィゼーションというのは、その時その場でやっている作曲である、という捉え方があったりすると思います。実際、即興演奏の現場で、演奏家は不断にその次の音を、どこかから引き出しながら、ある意味では作曲をしていると言えると思うんですね。


聴衆の反応も含めて、ある奇跡的な瞬間、うまくいった瞬間があるとすると、そのうまくいった瞬間を反復することができないかな、ということを無意識的にも考えるということが起きてくる。そうすると一種の作曲みたいなものになってくると思うんですね。


今言ったことを逆さまにすると、結局人は作曲をするときに、音楽を自分の中から作りあげるときに、何をしているか、ということが気になるわけです。






これは別に音楽だけじゃなく、結局、始まりっていうことがいったいどのようにして起きるか、ということが、ぼくにとって問題なんですね。何かが始まっているとき、そこにある驚きがある、ということだと思うんです。


そこで、音楽が始まるときに、いったい何が起きているのか、それを別に作曲と呼んでいいんですけれども、つまり音楽が作り出され始まるとき、いったいどんな仕組みが働いているのか、ということを自分なりに考えたいというふうに思うのですね。


そうすると、なぜ自分がインプロヴィゼーションと呼ばれる音楽に、これほど拘りを持ってきたのか、1冊の本を書いてしまうほどに拘りを持ってしまうのか、ということも、結局のところ、インプロヴィゼーションというのは、ずっと始まり続けているような音楽だという意識がぼくの中であるんですね。


ひたすら始まり続けている、始まりがずっと連鎖しているような音楽、というのが、ぼくにとっては理想的なインプロヴィゼーションであるわけです。


なので、そういったことが、この本を書かせたんだろうな、と、自己分析しているわけです。


そういうふうに考えると、始まりということを考えると、音楽だけの話じゃなくなってしまうわけです。この『即興の解体』という本では、音楽と演劇についてだけ書いているわけですけれども、実際、さっき電子音響であるとか、サウンドアートであるとかいう話をしたんですけれども、ぼくは、今そう思っているだけで、先のことはわからないわけですけれども、恐らくこの『即興の解体』という本を最後に、音楽を中心とした書物をもう書かないだろうと思うんですね。


自分が音楽という分野の中で書きたいこと、というか、書けることっていうのは、これで書いてしまった、という気がしていて、この後は違うことをやるしかない、あるいは、音楽について語るにしても、音楽を真正面について語ることじゃないことしか多分できないんじゃないのかな、という気がしているんです。


それは翻ると、自分が拘ってきた、自分が気になってきた問題っていうのは、あるジャンル、ある芸術形態、ある表現手段というものに特定されることじゃなく、あらゆるジャンルの中に少しずつ含まれていることだったんだろうなあ、と今では思っているわけです。


それが今話しをしてきたように、驚きという言葉であったり、あるいは、始まりという言葉であったりするんですね。


それで、ちょっとここで、未刊行の文章をちょっとだけ読みたいと思うんですけれども、これはWEBにはアップしたものなんですが、例えば、ぼくは小説というものを、小説がいったいどのように書き出されるか、ということに、非常に強い興味を持っています。


小説だけじゃないですけれども、つまり、どんな創造行為にも始まる瞬間があるんですね。その始まる瞬間というのは、何が始まると取るのか、というのもまちまちですけれども、必ずそれが始まる瞬間というものがあるわけです。だって、始まらないとその後というのはないわけですから。


そして始まりの前には行為としての創造というのは、まだないんですね。にも関わらず何かが始まる。それがいったいどうして起きるのか、それに関して、小説についてそれを書きたいと思って、恐らく長い小説についての文章になるものになるであろうものの冒頭部分を書きました。それをちょっとだけ読みます。





----------------(第1回 小説のはじまりとはじまりの小説)
http://expoexpo.exblog.jp/m2011-03-01/


 たとえば絵筆の一閃から立ち上がる世界がある。確かにそれ以前からまったく何もなかったわけではないにしても、しかし点か線かあるいは面か、また色の有る無しにかかわらず、画家の掌によって、はじめてカンバスの上に何かが生じさせられた瞬間に、まさにその瞬間から、あたらしく存在し始める世界が、きっとある。
 そのとき画家が何を見ているのかは、じつはさほど問題にはならない。いままさに見ているものを写すのか、かつて見たはずのものを思い出しているのか、それとも一度も見たことのないはずのものを描こうとしているのか、それはもちろん大きな違いではあるけれど、絵筆の一振によって俄に立ち上がる世界、という点では、要はおなじことではないか。今ここに、ある一枚の完成された絵があるとして、それは必ず、すべてが一遍に誕生したわけではなくて、当たり前のことのようだが、最初の一筆から最後の一筆までにかかったある時間の帯が、そこには畳み込まれるようにして潜んでいる。その時間は大概の場合、目に見えることはないが、確かにそこに、ある。
 描き終わった瞬間から、この絵を見ている現在まで、その絵はいまこうして目の前にあるようにして存在してきた。けれどもそこから時間を巻き戻してゆくと、絵は少しずつ点と線と面と色を失っていって、最後には最初の一筆、はじまりの一閃、世界の創世の瞬間へと辿り着く。そしてそれ以前は、まったく何もなかったわけではないにせよ、その絵は、その世界は、そこにはやはりなかったのだ。
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というのが冒頭なんですけれども、今、小説論って言ったんですけれども、絵のことしか書いていないですね。このようなことが小説にも起きる、ということが、この小説論で書こうとしていることです。


今、正に、自分の文章を読んだようにですね、何かが始まる、ということは、ある意味では、世界が始まるということと等価なんですね。


それがどうして始まるのか、ぼくはホントに自分自身が、演奏家じゃないと言いましたけれども、例えば、作曲家でもないですし、作家でもないですし、ぼくは人が作ったものについて、自分が思っただけのことを言葉にしているだけの人間ですから、どっかでですね、表現者、創造者、クリエイター、アーティストと呼ばれる存在に対して、あこがれではないですけれども、ある種の神秘をいだいているんですね。いったい何でそういうことができるのか。


しかもそれを単にさっき言った、天才とか才能という言葉に言い換えて終わりたくないんですね。それを、言ってみれば、プログラム的に理解することができないだろうか、ということをどうしても考えてしまう、ということがあるんですね。


それでこの『即興の解体』の後書きにも書いてありますけれども、音楽の中の即興という問題について、どの程度、自分が今後、考えることができるのか、考える問題が残っているのか、というのは、今の時点で何とも言えないです。


恐らく何がしか、もちろん今後、新しい即興演奏の形、新しい音楽の即興の試み、というのが出てくる可能性はもちろんあるので、それについて言葉で反応するというのは、あるのかもしれないですけれども、基本的には、恐らく、この本の中で、自分が問おうとした問題を、他のジャンルにおいて問うていく、もっと問うていく、もしかしたら、一番最初の結論にまた戻っていくだけかもしれないですけれども、それでも問うていく、といういうことに、今後はなっていくんだろうな、というふうに思っています。


そこはホントにまだ、何と言いますか、まだ終わっていない、という気持ちがあるわけです。


それが今後の話であるわけなんですけれども、非常に奇妙なのは、さっき自分がインプロヴィゼーション、即興演奏というものに、ある時間をかけて拘りを持ってきた。今でも、もちろんそういったコンサート、ライブなどには、以前ほどじゃなくなりましたけれども、見にいったり、ききにいったりしていますし、拘りを持っている。


なぜ自分が即興というものに、これほど拘ってしまうのか、ということを、自分なりに問いなおそうとしたのが、この本だと言えるのかもしれないです。


それはこの『即興の解体』という形になるよりも、ずっと以前からそうだったのですね。そのことを最近ぼくは再認識しました。






というのは、この『即興の解体』は4月に出て、その後、夏に小説家の人にインタビューした『小説家の饒舌』という本が出ていますけれども、実は、その後の本も書きあがっていて、ぼくは8月の半ばに、この本の後書きにも書いていますけれども『未知との遭遇』というタイトルの本を脱稿しました。


500枚位の書き下ろしなんですけれども、変なタイトルですけれども、タイトル通りの内容なんですけれども(笑)未知と遭遇することはいいことだ、ということを書いている本なんです。


これは今日語ってきた『即興の解体』についての話と非常に深く関係していると、ぼくは思います。正に驚きとか始まりとか、そういうことを、音楽、演劇、あるいは音楽や演劇以外のジャンルのことを今後書いていきたいと言いました。


そういった芸術と呼ばれることだけじゃなく、もっと普通に、ベタな言い方をすれば、人生の問題として論じたのが『未知との遭遇』という本なんですね。


で、この本を書くに当たって、いろんなことが書いてある本なんですけれども、自分の過去の文章を再読して、かなりびっくりしてしまった、ということがありました。


というのは、ご存知ない方が多いかと思いますけれども、ぼくは一番最初に物書きとしてのキャリアを始めたのは、映画というジャンルだったのですね。映画評論家でした。


ぼくは29歳、30歳位のとき、映画についての本を2冊出して、それから10年位映画については一切書かない、ということが起きるんですけれども、その時『ゴダール・レッスン―あるいは最後から2番目の映画』という本があります。


これは本当にぼくの20代の産物で、今から20年以上前なので、本当に若書きと言えば若書きですけれども、その中に、ジャック・リヴェットという映画監督について書いた、かなり長い文章があるんですね。


ジャック・リヴェットはフランスのヌーベルバーグの監督で、ヌーベルバーグの世代では今ほとんど唯一生き残っている、後の人はほぼ全員死んだ状況ですが、あ、ゴダールが80歳でいますけれども、ゴダールと並ぶ存在としている人です。


リヴェットについて書いた文章、20代、26-7位でしたか、ホントに今から20年前ですね、について書いた文章が「NOISE, RIVETTE, INPROVISATION」というタイトルなんですね。


その中で、インプロヴィゼーションについて、自分が思うところを、その文章の中で書いています。その文章を読み直して、ぼくはこの『未知との遭遇』という本の最後から2番目のパートに、その自分が20年以上前に書いたリヴェット論を引用したんですね。


そこの部分を読みます。これは『未知との遭遇』、未刊行の、多分、年内位になると思いますけれども、その中の部分で、その中でさらに20年前の自分の文章を引用しています。


読ませていただきます。これは、ですます調で書いてあるんですね。ですます調が最近は非常に好きなんですね(笑)





----------------『未知との遭遇』からの引用始め
(三日目 UNKNOWNMIX! B面 未知との遭遇 インプロヴィゼーション)


 今から約20年も昔のことですが、ジャック・リヴェットという映画監督について長めの文章を書いたことがあります。『ゴダール・レッスン―あるいは最後から2番目の映画』という本に収録されているものです。その中で僕は、リヴェットの映画を、ミシェル・セールの『生成』という哲学書と、ジョン・ケージのインタビューと、「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれる音楽の一形式、という三つの参照項を縒り合わせるようにして論じているのですが、あらためて読み直してみたら、ぼくがまだ20代だった時に書いた、この若書きの批評文の内容が、ここまで話してきたことと、


(これは未知との遭遇という本のほぼ結論部分なので)


極めて強い関連を持っていることに気づきました。 まず、そもそも「フリー・インプロヴィゼーション」とは何か、ということについて述べた部分を引用します。


(ここから先は「NOISE, RIVETTE, INPROVISATIONージャック・リヴェットを聴く試み」からの引用です)


 フリー・インプロヴィゼーションは、歴史的にはジャズから派生したものと言えるだろうが、ある意味ではジャズと完全に断絶している。まず、それはジャズで言うところの「即興=アドリブ」とは違う。アドリブは字義通りには、後先考えず思いつくまま行うまったくの「即興」のことである。それはスポンティニアスな行為とされるが、しかし楽曲の完全な散逸を避けるため、ひとつの構造を必要とする。従って基本的にジャズのアドリブは、一定の主旋律を個々のプレイヤーが「解釈=表現」するという形式を取ることになる。それは一種の"変奏"である。そこでは、たとえどれほど遠くまで離れて行ったとしても、常に参照され、回帰されるべきポジションとしての"テーマ"が温存されている。これに対して「即興=インプロヴィゼーション」は"テーマ"を持たない。まず最初の一音、次にまた一音という、一連の推移があるだけである。かといってもちろんそれは、単なる出鱈目ではない。 (「NOISE, RIVETTE, INPROVISATIONージャック・リヴェットを聴く試み」『ゴダール・レッスン―あるいは最後から2番目の映画』1994.12)


(ここで引用終わりです。地の文に戻ります)


「フリー・インプロヴィゼーション」もしくは「フリー・インプロバイズド・ミュージック」は「インプロ」と略されることが多いのですが、僕はこの文章を書いてからも「インプロ」について長い時間をかけ考え続け、断続的に幾つかの批評文を発表し、最終的に『即興の解体/懐胎』という長編論考を書き上げることになります。同書を読んでもらえればわかるように、現在の僕は「インプロ」の方法論的なポテンシャルについては懐疑的なのですが、けれども、まだ若く幼かったころの自分が、「インプロ」という音楽形態から見出そうとしていたものは、実は「未知との遭遇」だったのです。自分でも些か驚いたことに、それははっきりと文章の中で示されています。三箇所ほど断片的に引用してみます。


(ここからまた引用です)


 次なる一歩を限りなく微分していくこと。これは行き当たりばったりの出たとこ勝負とはまるで違う。逆にたった一つの音もおろそかにしないことである。一度限りの"賭け"としての演奏、「今、ここ」で試みられる"作曲"なのだ。


 インプロヴァイザーは演奏の間、常に無限の可能性に直面しているが、しかし結果として発された音は紛れもない必然性を持つ。だが、それがあくまでも"結果として"だという点を忘れてはならない。


 フレッド・フリスはこう書き付ける。「インプロヴィゼーション。自分の運命を受け入れる」。運命を受け入れること。それは決して消極的な処世術を意味しない。それはむしろ、あえて危険に挑むことなのだ。(いずれも同)


(引用終わりです。地の文です)


 ここで「音楽=演奏」について述べられていることを、われわれが「世界」に臨む姿勢と、「人生」に対する態度に置き換えて見れば、ほぼそのまま、本書で僕が語ろうとしていたことになってしまいます。  フレット・フリスはイギリスの前衛的なギタリストです。彼の活動を追ったドキュメンタリー映画の題名は『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』というのですが、


(ご覧になった方も多いと思いますけれども、非常に素晴らしい映画ですね)


 僕は「ボーダー」とは、音楽のスタイル/ジャンル間の壁や、あるいは国境や人種といった意味だけではなく、誰もが一瞬ごとに常に目の当たりにしているものだと思います。インプロヴィゼーションが「自分の運命を受け入れる」ことなのだというフリスの言葉は、「即興」的に生きることと「運命」の肯定が、全く矛盾することなく両立し得るという真理を語っています。僕もそう思うのです。  インプロヴィゼーションとしての生、それは自分を可能な限りマルチプルに鍛え上げながら(もちろんその前に自らのマルチプルさに気付くという段階があります)、「諸現実=諸虚構」の無数のヴァージョン、すべてが正しいヴァージョンの不断に寄せ来る波として、絶えざる「未知」としての次の瞬間を、限りなく微分してゆくこと、そして過ぎ去った時間に対しては、あの「最強の運命論」をもって、


(この辺りは全然意味がわからないかもしれないですけれども、この本に書いてあることなので(笑))


力強く肯定してゆくことです。それはUNKNOWNをMIXしながら生きることでもある。


(ぼくはUNKNOWNMIXというレーベルやってまして、もともとは、バンドの名前だったんですけれども、スイスにある、UNKNOWNは正に未知ですね、未知というものをMIXする言葉が面白いと思いまして、今でもこの名前のレーベルを自分の会社の中でやっています)


UNKNOWNをMIXしながら生きることでもある。そうすれば、われわれの世界はセカイでもシャカイでもない、真のアドベンチャーワールドとしての正体を露わにし、ぼくたちの人生はゲームなどとは比較にならない、めくるめく冒険としての姿を覗かせることでしょう。少なくとも僕は、そのことを確信しているのです。


----------------『未知との遭遇』からの引用終わり
『未知との遭遇: 無限のセカイと有限のワタシ』
佐々木敦 (著)
筑摩書房 (2011.12.08)



というようなことが書いてあります。つまり、インプロヴィゼーションというものの、今読んだところがですね、ぼくが、インプロヴィゼーションという営みというか、試みというか、に見出したいと思っている可能性というものの核心が、今読んだところに現れている、と思います。


そしてそれは、一番最初に言いましたように、やはり驚きたい、ということなんですね、驚き続けたい。


しかし、生きていると、長く、だんだん






驚けなくなってくるんですよね。それも、さっきの記憶の問題で、あー、これはあれだわ、とかですね、これはつまり既聴感、デジャブですね、既視感、既聴感がどうしたって生じてしまう。それは仕様がないんですね。


この『即興の解体』の前半の中でも、結局、理想のインプロバイザーになるためには記憶喪失者になるしかない、みたいな。じゃあ、どうすればいいんだよ、いうようなことが書いてあるんですけれども、そういったことは受け入れなくてはならないと。


つまり記憶喪失者に自ら進んでなることはやっぱりできないですから、それは無理なわけですけれども、それでもどこかで驚き続けることを、ぼくは多分自分の中ではある意味非常に素朴に問題にし続けていいるんだと思います。


それがこの本の形を取って、恐らく今後も、演奏とか音楽とかいう言葉は取れてしまっているかもしれないですけれども、即興ということは、多分、生涯のテーマみたいなものとして将来も多分、今後もあり続けるんだなあと思っているわけです。


なので、一番最初の話ですが、この日本音楽即興学会に招いていただいて、即興演奏の具体的な可能性というか、に関してこの本に書いたこと以上の考えが、今後生じる可能性はあるけれども、今の時点では、ぼくはほとんど持ち合わせていなくて、むしろ即興について考えようとすると、今お話したような、ある意味茫漠とした人生論みたいな話になってしまう。


それは、もともと、そういうことが自分の中で問題だったからなのかもしれない、という思いがあるんですね。なので、ここに来てお話をする、ということに躊躇があったわけです。


けれども、せっかく呼んでいただけたので、神戸に来たのもホントに数年ぶりでしたけれども、まず自分が即興という、インプロヴィゼーションという言葉に対して、いったい何を問題にしているのか、ということだけでも、お話しようかな、というふうに思いまして、今日、ここに参りました。


(講演終わり)


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質疑応答
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●質問者: 驚くべきこと、というお話で思い出したのですけれども、ぼくが、現代音楽を昔、学んでいて、初めてそれに触れた時、ある大御所の作曲家の方の講習会でした。いろんな作品について、その方がコメントするのですけれども、その方も既聴感とか未聴感を大事にしておられて、これはすごい既聴感だね、とか、これは未聴感だね、と言われるんですけれども、ぼくにとっては、その時は全部、同じぐちゃぐちゃ、というふうにしかきこえなくて、あなたのさじ加減じゃん、って思ったのです。フォーカスする人によって・・・。


●佐々木: それは、その作曲家は膨大な音楽をきいてきて、なおかつ、自分も作曲をしているので、微細な差異の検出能力に長けている、ということでもありますね。


●質問者: それが驚くべきことにとって、大事なのかな、と思って。


●佐々木: そうですね、さっき、歳を取ってくると驚くべきことが減りましてね、という話をしましたけれども、だとすると、何も知らなければ、無知であれば驚くことばっかりじゃん、ということに、なってしまうんですけれども、そういう知識や経験の多寡ということによって、驚きというものを計る考え方が、正に歳を取ってきたから驚きが少なくなっちゃったよね、ということになるんですよね。


だから、それはもちろんそうなんだけれども、本当は、驚くためには驚かなくなる、という段階が必要なのかな、と思うわけですよ。何でも驚ける、というのは、とてもナイーブなことであって、それはそれで牧歌的ないい時代だった、ということになるんですけれど、やがて、必ずその段階を超えてしまうので、その段階を超えた後、いかにして驚くのか、というのが多分重要だと思うですね。そこからが勝負だ、という気持ちが、ぼくは多分かなりあるんだろうな、と思います。


だから、むしろ、驚きとか、そういうことを、ことさらに問題にするようになったのは、むしろ歳を取ってきたからなんですね。若いときは、言うまでもなく驚いていた、という気がしていますけれども。


●質問者: その講習会の場合は、逆に、年配の作曲家の方の方が驚いていたんで。


●佐々木: そうですね、さじ加減、というのがそういうことであれば、さっきも言いましたけれども、驚きというのは、驚かれる側にあるんじゃないんですよね。驚く側の方にあるわけですよ。そのポイントというのは。これも『未知との遭遇』という本の中に書いたんですけれども、変な例えなんですが、小沼丹という、死んでしまった小説家がいまして、ずっと昔に亡くなった私小説の作家だったんですけれども、その人の小説というのは、ホントに何も起きないような、庭で何か咲いたとか、子供が何か持ってきたとか、そういう小説なんですね。小沼丹はそういう私小説というか、ほとんど身辺雑記のような小説、ほとんどエッセイか小説か区別がつかないんですけれども、その中で、何度もびっくり、という言葉を使うんですね。


びっくりした、びっくりした、っていうふうに彼は書くわけです。こんなことで普通びっくりしないだろう、って、読んでる方は思って、何か笑っちゃうんです。にも関わらず、別に、彼は笑わせようとして書いているわけじゃなくて、ホントにびっくりしているんだと思うんですね。ホントに、庭に何かが、ふと気づくと、咲いていて、びっくり、みたいな。


それは、ぼくはとても幸福なことだなあ、と思ったのです。年配のの作曲家が、年配になっても驚いたというのは、その方がどういう方かわからないのですが、すごい人であり、幸福な人だなあ、と思います。


どちらかと言うと、やはり、どうしても、歳を取っていくと、既聴感や記憶のストックが生じて、またこれかよ、みたいなことの方が、新しいもの、あるいは、未知のものに対する期待というものが、なくなっていってしまう、ということの方が、多分多く起きているんだと思うのですよね。


だから、その人は、すごい人だったのか、単に年齢的に若干こうぼんやりとなっていたのかわからないですけれども、どちらにしても幸福なことだなあ、と思いますね。


●(次の)質問者: 私、即興を使って音楽療法をやっているものなんですけれども、一人で演奏するというのではなく、必ず誰かと一緒に即興演奏している立場です。先生のお話を伺っていて、私の仕事に置き換えて考えたときに、とても重度の障害を持っている、四肢麻痺がある子でも、即興でいろんなことができるんですね。即興を使って、治療者として、その子の生きる力を伸ばしたい。そのためには、臨機応変、フレキシブルなことが即興には重要ですし、記憶があっても、記憶があることで、さらに生きる力につながっていくと。


だから、障害者と一緒に音楽をやる、ということは、その子のサバイバル能力につながっていくんじゃないか。いろんなケースがあるので、そこまで詳しくは申し上げられませんけれども、私がいつも思っている、音楽での治療で、何ができるか、というときに、カナダの音楽療法士が言っているのですけど、先生の驚き、という言葉をきいて、思い出した言葉なんですけれども、音楽療法で何をするか、というかと、「奥深い驚きのための意志力を育てる」と言っているんですね。それは何かをするとか、歌を歌うとか、わかりやすいことではなくても、内的な音楽能力の即興の力でもあるので、特に重度の子供たちを見ていると、記憶がもしあっても、健忘しなくても、障害者としての、即興音楽家としての彼らの表現を・・・。


●佐々木: さっき驚きという言葉と共に、始まり、という言葉を出したんですけれども、ある意味、そういった障害があるお子さんなどが、例えば音楽という行為を、楽器を与えられて、何かするというのは、音楽という営みを手がかりに、世界を発見するという部分がすごくあると思うんですよね。むしろ、正に世界がどんどん始まっていくような、体験なんだろうと思うわけです。


今日の話ではあまり出なかったですけれども、今仰られたように、演奏行為、特に即興演奏、ソロ以外は必ず、一種のコミュニケーションなんですよね。例えば、ある楽曲があって、その楽曲をいかにうまく合奏するのか、っていう問いとは全く違ったことが、即興演奏の合奏では起きている。そこのところ、というのは、かなりいろんなことを考えることができる、問題があるなあ、とぼくも思ってはいて、その中で、この本の中では、即興演奏におけるコミュニケーションの様相の中でむしろ一番、あまり好ましくないと思われがちな、裏切り合い、裏切り合うことによって生じることを書いたりしたんです。


これは音遊びの会とも関係あると思うんですけれども、ぼくは何回か音遊びの会のコンサートを生で拝見させていただいて、すごく感動するのは、こういった言い方が正しいかどうかわからないですけれども、障害を持った人が音楽をするということの試み自体に感動しているだけじゃないんですね。それにも感動しますけれども、けれども、そうじゃなくて、正にここで音楽が始まっている、っていうふうに、見ながら、ききながら思うんですよね。


ホントに、音楽というものが、一体なぜ、存在するのか、ということを、また何か大げさな言い方になっちゃうんですけれども、ぼくは3月11日以後に、よく、とりわけ芸術に関して、例えば、音楽に何ができるのか、何とかに何ができるのか、っていう、それはそれなりに真摯な問いというものが、非常にたくさん浮上してきたと思うんですね。


そういったことに関して、ぼくの、自分なりの意見を求められたり、することがあるんですけれども、とても誤解を受けやすい言い方になってしまうんですが、ぼくはそういう問い方が非常に嫌いなんですね。


ぼくの考えでは、芸術と言われる行為は、もともと何かができるものじゃない、と思っているわけです。もともと。何かができるんだけれども、何かをするためにやるものものとは違うものではないか。つまり、芸術というものは、あってもなくてもいいものだと思うんですね、あってもなくてもいいんです。


だって、そういうものを必要としていない人間だっているわけだから。にも関わらず、あるし、あったら、いいことがある、というのが芸術だと思うんですね。


だから、音楽というのも、正にそういう部分があって、その音楽が、例えば、今日の前半の話の中で、一つ潜在的な問いとしてあって、あまり発展しなかった問いとは、いい即興演奏とはいったい何なのか、という問いだと思うんですね。


これはある意味、いい音楽とはいったい何なのか、いい芸術とはいったい何なのか、という、芸術というものを、どのように評価するのか、あるいは価値判断するのか、ということと多分深く関係していると思うんですね。


で、音楽もある意味、この音楽はいったい、いいのか、例えば、音楽療法として行われた演奏、そこで得られた音源というものは、全く違った次元で、作品としてどのように評価されうるのか、という問いというのは、これはできると思うんですね。そこの部分を完全に括弧に入れるということも、ぼくは好ましくないと思うんです。


にも関わらず、それとは別に音楽というものが、していることがある、ということだと思うんですね。それは、やっぱり世界を発見する、ということに非常に近いことであって、音楽じゃなくてもホントはいいのかもしれないけれども、音楽ができることが、また一つそこにあるんだろうな、というに思います。


これは、別のところでも言ったことがあるんですけれども、今ちらほら話しているようなコミュニケーションの次元における即興演奏の可能性ということに関しては、実はこの本はほとんど語っていないんですね。


ちらっと触れているところはあるんですけれども、それに関しては、むしろ意識的にカットしてしまったわけです。そっちの方に行かないようにしてしまったわけです。


それで、今日さっき、どうしようか悩んだけれども、ここに来ました、みたいなことを言いましたけれども(笑)ここに来るに当たって、一つ逡巡の芽としてあったのは、正に、ここが、沼田さんも、若尾先生もいらっしゃるんで、音楽療法や音遊びの会のヘッドクオーターと言いますか、そういう場所であることは、もちろん、ぼくもわかっていたんで、そこについての問題を、ほとんど語っていない本を書いた自分が、ここで語っていいのかな、というのが正直かなり、ありました。


けれども、そういった問題が自分にとって重要でない、ということではなくて、それはかなり考えていきたい問題であるなあ、と思っているんです。


けれども、なかなか難しいなあ、と自分では思っていて、音楽療法に関しても、ぼくは素人にちょっと毛がはえた位の知識しか持っていないので、今後何か勉強できればなあ、と思っているところです。


●質問者: 音楽療法はコミュニケーションだけじゃないので、2人が音楽を同時にしていることもあるので。必ずしもそうではない。


●佐々木: ええ、ええ。


●(次の)質問者: ぼくが聞こうとしたことを半分位、答えていただいたんですけれども、まず、ぼくは微分ということがすごい好きなんですけれども、最初何が起こるのか、それを微分していくと、その起こる時に何が起こるのか、またそれを微分していくと、その起こる時の起こる時に何が起こるか、どんどん微分していくと、何ていうのですか、すごい純粋な即興ができるような、理想的な即興ができるような、というような取り方をしたのです。それは、ぼくは考えたことがあるのです。そこの体感的な時間というのが、無限大に、無限に微分していくと、時間が無限大になって、時間の流れ方が遅くなっちゃって、丸みたいになっちゃうというか、最初の一歩が踏み出せなくなっちゃうところがあります。


その時にどうしたものかなあ、批評という立場からあるものを批評することも微分することもはできるんですけれども、演奏という立場からそれやっちゃうと、最初の一歩をいつになっても出せなくなっちゃう、というのが一つ感想なんです。


そこで、ぼくがいつも思うのは、誰かと一緒にやることなんです。誰かとやると、相手はある程度、人間同士だから何考えているか予想できる、だからこっちから仕掛けを出して、何か返ってきたり、とか、考えながらできる。でも、最終的には当たらない、頭の中はわからない、というのがあるので、相手が予期しないこと、相手がしたことによって、こっちがどうするか、ということによって、どんどん音楽が進んでいく、音楽が先に進んでいくということができます。


だから、ぼくはすごく一人でやる即興が苦手で、誰かとやる即興がすごい楽なんです。ほとんど誰かやるんですけれども、希に一人でやるときは、それこそ予期せぬことが起きるように、一方シンセを演奏しながら、一方フィードバックが起きる機械とか、あえて、たくさん置いて、わけわからなくして、したりするんですけれども。


そういうところで、1人でやる即興と、2人以上でやる即興との違い、というのが、あんまり分からなかったので・・・。


●佐々木: 今、言われた、誰かとやることによって、即興というものが、より予想外なものが起きやすくなる、というのは、この本の中でも、さっきあげた、裏切り合いという言葉を使って、書いたりはしていることなんですね。


この本以前にも、何度かインプロヴィゼーションについて文章を書いたりしていまして、『テクノイズ・マテリアリズム』という本の中に、高柳昌行と安部薫のデュオのアルバムのライナーノーツとして書いた文章が入っているのですけれども、それは「1人でも3人でもなく2人であるとはどういうことか」とかいうタイトルだったんですね。


この本の中にも書きましたが、正にあなたが言われたように、2人以上の方がやり安いからこそ、1人でやるインプロヴィゼーションの現場ではいったい何が起きているのか、ということが、ぼくが一番興味があることなんですね。


1人のときは、1人しかいないわけで、どうやって驚くべきことを起こせばいいのよ、というのは、ホントに難しい問題で、結局さっき、驚くとか、不断に始まるとか、そういう言い方は、全部外側から、そういったことが起きているとされる、外側から、ぼくが感じて言っていることなので、実際に演奏している人の中で自意識として、いったいどういう考えが働いているか、ということは、よくわからないんですね。


正にそれはブラックボックスで、ぼくはホントはそこの部分というのを、プログラム的に解したいというが、もともとはあったんですね。


ところが、さっきも言ったような、ホントにすごい人は、自分がするつもりじゃなかったことをできてしまう、というときに、自分がするつもりじゃないことができてしまったということを、いったいどうして可能になったか、ということを説明しようと思うと、無意識がそれをしたんだ、という話にどうしてもなっちゃうですよね。


無意識的にそれをしたんだ、というと、そこで話が終わっちゃうわけですよ。だから、ホントによく言っていることなんですけれども、ぼくは無意識という言葉を使わないようにしたいんですね。


つまり、無意識的に起きるんだったら、もうこれは、正に批評言語というものがですね、相対することができないブラックボックスになってしまうので、そうではなくて、むしろ、そういったことも全部、ある種、ロジカルに起きていることなんだ、というふうに、どうにかして考えられないかな、というのが『即興の解体』の前半の目論見だったんですね。


けれども、正直言えば、それはかなり難しかったです。本当は、これは結局書かなかったんですけれども、例えば、デレク・ベイリー・マシーンみたいなものを作って、しかも単純に作れる、例えば、デレク・ベイリーの音源をいくつかパーツに分けて、それがランダムに再生されるようなことでもいいんですけれども、それをきくと誰もが今まできいたこともない、だが、紛れもないデレク・ベイリーの音楽がいくらでも再生できるとか。


そういう身も蓋もないような形で、理解したい、というのが、ぼくの基本的な欲望なんですね。


つまり、人間の、言ってしまえば、創造行為であるとか、あるいは感情の変化であるとか、そういったものも、無意識という言葉を使うと、そこで神秘化してしまうので、そうではなくて、こうこう、こういう仕組みによって、こうなっています、というふうに考えたいわけです。


例えば、同じようなことが、音楽に関しても、音楽が始まる瞬間とか、驚きという言葉を使っていますけれども、それも外装的に、あくまでも、プログラミング的にそういうことができるようなことが考えられたらいいな、というのが、この本で書きたかったことなんですね。


でもそれは無理でした。でも、それは無理だっだんだけれども、ぼくが無理だった、イコール、そういうことじゃないんだ、とは今でも実は考えてないんですね。


だから、さきほどの話に戻すと、ソロのインプロヴィゼーションで何が起きているのか、というのは、ぼくは一番面白い問題の一つだ、というふうに思います。


そこはホントに、あ、そう、さっき歳森さんの無音ストリートのときに、ぼく、すごい興味があったのは、あれは何を弾いてるんですか?


●歳森: (笑)


●佐々木: 弾いているのは、もともとある曲を弾いているのですか? ずっと即興で弾き続けているのですか?


●歳森: 先ほどは、きかれない、というのがテーマでしたので、内容については全く隠していたわけなんですけれども、雑踏でジャズをやってますのでブルースをやっています。


●佐々木: そのブルースは歳森さんの曲というか?


●歳森: いえ、単にブルース形式でずっと、ジャズ的な即興で弾き続けています。


●佐々木: すごく、先ほどの論議で面白いな、と思ったのは、どなたかが、どういうつもりでやってらっしゃるのか、という仰ってましたけれども、どういうつもりでやってらっしゃるのかが一番わかんないのが、この試みの、歳森さん、やってらっしゃって面白いというのは多分わかるんですけれども、あと、見ている人も一部面白いだろうな、というのも、わかるんですけれども、結局何を意図していることなのか、というのを考えたときに、聴衆になるかもしれない通行人の問題と、歳森さん自身の問題が2つ入っていて、その2つが1つの試みの中に入っているので、話がややこしくなってくる、というのがあるなあ、と思ったんですね。


で、先ほどの論議の後半は、もっぱら聴衆の側の反応の話になっていて、実際に歳森さん自身がそれを見ているわけだし、今日のビデオというのも、アングルを変えて、お客さん、というか、通る人の視線とかを見ている、というのは、正にそういう意図によってなされている、と思うんですけれども、ぼくが興味があったのは、むしろ歳森さんがどう変化しているか、なんですね。


例えば、ワイヤレスヘッドホンを装着して3秒しないと音が鳴らない、というのも、あれは例えば、演奏しているのは歳森さん1人なんだけれども、ワイヤレスヘッドホンがいくつもあって、取った人によってきこえるのもあれば、ランダムにしかきこえないのもあれば、全然きこえないのもあってもいいと思うんです。


それによって、何が起きるかというと、そういった目の前にいるヘッドホンをしている聴取者の態度なり振る舞いによって、今、正に演奏している歳森さんの音楽が、どのような変化を受けるか、というのが面白いじゃないかと思うんですね。


ですから、それをDVDとかで出すといいと思うんですね(笑) お客さんとマルチアングルで、歳森さんの動きを撮っているのもあって、そこで演奏している音もきける、もし1時間なら1時間それなりに人通りがある中でやったものを、マルチアングルで見れて、なおかつ音もきける、というものにしたら、これはある意味、すごく面白い研究材料になる、と思うんですよね。


もちろん、聴衆の反応も面白いんですけれども、聴衆がああいう状況でどのような反応するのかは、ほぼ想像可能だ、と思うんです、バリエーションが。こういう人もいるよね、こういう人もいるよね、というように。


でも、そういったパラメータによって、歳森さんが演奏している音がどういう変化を及ぼされるか、あるいは全然変化しないのか、ということが、ご本人の意識とは別に、記録によって露になるとすれば、すごい面白いんじゃないかな、というふうに思ったんですね。


それは正に、さきほどの質問の一人でインプロヴィゼーションしていることの、一人であるということが、どういうことであるのか、ということを逆にあぶりだすような試みの一つになりうるような気もするんですよね。演奏のとき何をしているか、気になったんですね。


●歳森: それは、さまざまな状況に対応した演奏者の何かが、実際の音に現れて、こうこうこう、であろう、という筋道だと思うんですけれども、それは、各々が全く関係なくてもいいかもしれないです。


●佐々木: そうですね、むしろ、一番興味深いのは全く変わらない、ということだと思うんですよね。


●歳森: はい。


●佐々木: 変わらない、という結果が多分一番すごい結果で(笑)そういうことがすごいのか、歳森さんがすごいのか、全然わからなくなってしまうとなりますけれども、さっきお話をきいて思ったのはそういうことだった、ということです。


●(次の)質問者: 佐々木さん自身が、即興のことについて書かれて、今は、生きることでしたっけ、人生のこと。


●佐々木: (笑)一応そういう本も書いたというだけのことです。


●質問者: 歴史的なことが、そういうふうに直線的に語られるかどうかもわかんないですけれども、昔は即興はジャズだったころ、コミュニケーションや社会性が、コールアンドレスポンスがよく取れているのがいいみたいな感じだったんだと思うんですけれども、それが裏切り合いみたいな感じになっていって、驚きとかいうことになってきて、歳をとるとそんなに驚かなくなってきて、何だかな、という。そういうことが、実際、即興音楽のシーン、音響だとか。流れていっている中で、全体的な中で驚きというのはなくなってきているのか、あるいは、杉本拓さんとか、作曲みたいなものを作ったとか、90年代ということだったのですが、ミュージシャンの人というのは、裏切り合いだけではすまないようなこと、何かが起こったりするんですけれども。いろんな演奏者の方を見られていると思うんですけれども、そういうところ、どういうふうに感じられているのかなと。


●佐々木: ぼくがさっきも言ってたみたいに、90年代後半から即興演奏における方法の極端化みたいなものは加速したと思うんです。ものすごい勢いで。その加速したものの、最も極点を示している一人が、杉本拓さんだと思うんです。


杉本さんはご存知の人も多いと思うんですけれども、もともとは非常に美しい即興ギターを弾く人だったんですね。ある意味ではメロディアスと言ってもいいようなギターを、その前はもっとノイジーな灰野敬二みたいなギターを弾いたりしてたんですけれども、だったのが90年代後半位に突然、単音しか弾かないとか、60分の間に4つ位しか音がならないとかいう世界に突入していくというのがありました。


例えば、SachikoMさんとかも、ある意味ではそうだと思うんですね。今でもそうなんですね。SachikoMさんという人は、もしかしたら、そういう世界の中で最もすごい人じゃないかな、と思う位の強力な一貫性を持っていると思うんですけれども。


結局、あるベクトルの考え方を選ぶと、それが極限まで行かないでは済まない、ということは、ぼくはけっこう90年代によく起きていたと思うんですね。これはテクノとかでもそう。


人間の聴取できる範囲の外にある音を使って音楽を作るということも90年代の終わり位にされていて、それはもうある意味では、聴取の問題、あるいは、旋律を奏でる、ということから、どうやって逃れるのか、というような方向をたどろうと思うと、どうしてもそういう極端なところまで最終的に行っちゃう、ということがあったと思うんですね。


ホントに、2000年前後位に、そういう方法的な過激さというのは極まっちゃったなあ、という気がしたんですね。


で、これはホントは難しいことなんですけれども、言ってしまえば、ある種コンセプチュアルアートに近いような世界に、即興演奏がどんどん近づいていったプロセスがあって、そのプロセスが最後の最後まで行っちゃうとですね、もうやっぱり、止めなきゃならないみたいになっちゃうんだと思うんですよ。


ぼくは、杉本拓さんがギターを単音をいくつか弾くだけに世界になったとき、これ以上このベクトルで行こうと思ったら、もうギター弾くのやめるしかない、もし、この歩みっていうものが、ホントの意味での革新性みたいなことを貫こうとするならば、ホントに止めなきゃいけない、止めるっていうことはある意味美しいことかもしれないけれども、それがミュージシャンとしていったいどうなんだろう、と思ったんですよね。


これは程度の差はあれ、例えば、大友さんにも言えることだと思うんです。大友さんもある種、音響的な試みに90年代後半どんどんなっていって、要するに、かなりドローンに近いような音楽をやるようになっていったとき、この後どうするのか、というので、ぼくは、大友さんと杉本拓さんの、この後どうするのか的な振る舞いは、真逆になったと思うんですね。


簡単に言ってしまうと、大友さんは音楽に回帰したと思います。今の大友さんはインプロバイザーというよりも、優れた作曲家であり、ギター演奏者である、と思うんです。


ぼくは大友さんはかなり意識的にやったと思います。そうしないと、要するに止めなくてはいけなくなる、ということがあったんじゃないか。


つまり、音響的な試み、あるいは、コンセプチュアルアートに近いような即興演奏の試みを貫こうと思うと後がないな。


拓さんは音楽に回帰は、ぼくはしたら面白いと思うんですけれども、しなかった。その代わりに、最初に、ある種の即興演奏は、音だけきいているのと、演奏している行為を見ているのと全然違う、という話をしましたけれども、ある意味、この本で書いている演劇みたいな世界になっていっているんですよね、杉本拓さんや、あるいは宇波拓さんとか、あの辺りの人たちは、音も出しているんですけれども、音が出されるあるシチュエーションなり、ある状況というものを、丸ごと作品として提示する、あるいは作品化するということを、いろいろやっているような気がします。


で、ご質問の即興演奏の現在みたいなことで言うとですね、ぼくは自分が演奏家でもないし、予言者でもないので、何がどうなるか、ということはわからないんですけれども、あるトレンドという意味では、ここ数年間、即興演奏、あるいはインプロヴィゼーションと呼ばれるような分野の中で、最も多いのは、フィールドレコーディングを使った演奏だと思います。


いろんなフィールドレコーディング、全く普通の、演奏行為でない自然音を録音してきて、それと、何らかの演奏行為、あるいは何らかの作曲行為を足す、ということが、かなりいろんな人がやっていて、インプロヴィゼーションの世界におけるトレンドは一言で言うと、CDの数に比例すると思うんですけれども、そういったCDが、そういったものばかり出す専門的なレーベルが非常にたくさん登場していて、そういうことが一つあるのかなあ、と思いますけれどもね。


ただ、自分自身の感触としては、自分の印象をあまり素朴に言うと、それによってしっぺ返しを食うということが多々あるということを最近発見したんですけれども、インプロに関しては(笑) ぼくは、やっぱり決定的に新しい方法論というのは、2000年代前半位以後ほぼ出ていない、と思っているんですね。


新しくなきゃいけないわけじゃないと思うけれども、新しいものがあったならば、それはそれなりに面白いものであろうと思っているので、単純に客観的な認識として、どちらかと言うと、90年代を通してインプロビゼーションという言葉がカバーできるような演奏あるいは作曲の方法論というのは、かなりマージナルな部分まで出揃ってしまって、それ以後は、その中で出揃ったさまざまな方法論をどのように、どうやって組み合わせて、選択し、その選択したものをどのようなある洗練度や、加工の中で、自分の表現としてやるのか、という段階になっているような気がしています。


これは別に、インプロだけの問題じゃなくて、他の音楽、例えば、テクノ、エレクトロニカうんぬん、みたいな、クラブミュージックとか、ダンシングミュージックとか言われる分野でも、ほぼ同様なことが起きていると思うんですね。


なので、ざっくり言ってしまうと、0年代以後、発見の時代は終わった、発明と発見の時代は終わった、というふうに、ぼく自身は思っていて、でもそれが別に悪いわけじゃない、ただの事実としてそうだ、ということに過ぎないので、その中で演奏家、音楽家は、自分の表現というものをどうやって行っていくか、ということを、もちろん真摯に問うているし、その中で豊かな結果というものもあるし、なおかつ、発見や発明の時代が終わったと言っても、発明や発見が今後二度と起きない、ということではないので、そこはぼくは常に期待をしているということがあります。


なので、できるだけ新しいことが起きていそうな場には行くようにしてるんですけれども、そこで、どうしても既聴感がじゃまをする、ことでしょうか、はい(笑)


●(次の)質問者: 驚き、ということを言うとき、小説の例で、ふと気づく、ということだったのですけれども、私は障害のある人と即興をしているですけれども、そういうとき、驚きは、新規なものが向こうからやってきたとか、それを作り出して出来事として起きる、というより、もともとある、が、ある時、そのものとして立ち上がってくる、ということだと思うんです。


その立ち上がってきたとき、後から考えると、それまでの何かは、正に必然的とか、すごく厳密的なプロセスとか、それが立ち上がって初めて、定まって、という気がします。


それって、相手との相互作用ではなく、自分の中の問題として全て起こる。


なので、ずっと同じことを繰り返している障害を持った人がいて、その人は意識もない、呼吸はしている、というときに、最初からずっと呼吸はしているし、それに対して何かアクションをしている。だけれども、何か起こるかな、というときに、その、あるものというが初めて生じたりする、というときがあって、そういうことをどうしていくかな、ということじゃないかな、っていう・・・。


●佐々木: そうですね、全くその通りだと思います。ホントに未知とか驚くべきこと、というのが、突然、出来するというか、空から降ってくる、ということだけでなく、もちろんそれはそれで、あることだと思うんですけれども、そうではなくて、ホントに全く同じ光景が、違うテクスチャーとして見えてくる、ということが実際にあるわけですよね。


実際にごく日常的なことの中でも起きていて、けれどもそれは、今言われたように、起きた瞬間にある意味、起きるべくして起きた、あるいは、ある納得というものの中に包み込まれてしまうので、わからなくなっちゃうわけですね。ある驚きというのが。


だから、ぼくも興味のあるのは、正に何だろうな、見慣れたはずのものが突然違って見えてくるときに、向こうは全く変わっていないのに、見えてくる、っていうときに、もちろん、それは、どんな人間でも変化するからね、って言ってしまうと、それはそれまでなんだけれどもも、そういうことじゃなく、ある特権的な体験として、そういうことが生じることがあって、それはいったい何なのか、ということですね。


何なのか、というのは、やっぱりよくわからないし、それを説明しようと思ってして、さまざまな論理を使うと、納得できるような気もするけれども、だんだんウソっぽくなっていく、ということもよく起きることであって。


でもぼくは、正にどうしても言葉を使って仕事をしている人なので、それでも、それを何とか言葉にしたい、という欲望があるんですよね。欲望っていうか、何だろう、したいわけですよ。


でも、できない、というか、うまくできない、ということもあって、正に言われた通りだと思います。ホントにごく些細なことでも起きているし、その些細なことが恐ろしいような決定的なことになる、ということもあることですものね。



●司会: では、どうも本当に、来ていただいてありがとうございました。貴重なお話を本当にありがとうございました。


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●佐々木: 最後まで、ホントにこういう話をしていいのかな、という感じが拭えないんですけれども(笑) ありがとうございました。


拍手・・・


(文字起こし:歳森彰)

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