日本音楽即興学会(JASMIM)2011大会報告


【発表者】
寺内 大輔(Disuke TERAUCHI)広島大学


【企画・進行】
寺内 大輔


【要旨(大会抄録記載)】
キーワード:他人に聴かれない、他人に見られる、自己満足、練習と本番


本ラウンドテーブルでは、寺内大輔の、即興演奏のための作品『耳の音楽』(2003)、歳森彰の即興演奏活動『無音ストリート』の実践を紹介し、それらの実践に共通して含まれる「他人に聴かれない即興」という要素を取り上げたい。


議論したい内容は、次の通りである。


寺内からの問い(他人に聴かれない即興演奏に関して)


・他人に聴かれているか聴かれていないかで、即興演奏の内容、即興演奏時の意識や心がまえにどのような影響があるか。


・即興演奏における「練習と本番」への意識とはどのようなものか。


・即興演奏における「自己満足」への意識はどのようなものか。


歳森からの問い(無音ストリートに関して)


無音ストリートとは、演奏者はヘッドホンを着けて音を出さないで演奏し、聴きたいオーディエンスだけがヘッドホンを着けて演奏を聴く仕組みのストリートライブである。


・「練習」は「他人に聴かれない」が、人前でする「本番」ではないので、よいこととして推奨される。一方、無音ストリートは演奏時間のうち「他人に聴かれない」時間が多くを占める。その時は、驚かれることが多いし、しばしば「自己満足」として嘲笑される。何が「他人に聴かれない」演奏を人前で実行し難くさせているのか?


・即興行為が目指すものの一つは状況への対応だろう。そうなら、「聴かれる」「聴かれない」という異なる状況、「見られる」「見られない」という異なる状況、「練習」「本番」という異なる状況などに対応することも、即興行為が目指すものではないか?







【報告】


「演奏に関するラウンドテーブル」について


●沼田里衣(大会実行委員長): 


この日本音楽即興学会で、「演奏に関するラウンドテーブル」をするに至った経緯の中で、議論がいろいろありましたので、少しだけそれを紹介したいと思います。


みなさん、MLの配信によって、少しだけその状況は見えておられたかと思います。


初めは、即興演奏のコンテストをやろう、ということで、いろいろと検討してきていました。


なぜコンテストをやろうと思ったかと言いますと、昨年、一昨年の大会のときに、評価ということが議論の中心の一つに毎年上がっていまして、即興演奏をどう評価したらいいか、ハラさんとか、問題提起されました。毎回、関連する議論がされてきたんですね。


そこで、コンテストをやってみて、本当に評価できるのかどうか、ということを、一辺みんなで考えてみたらどうか、ということになりました。


ただ、学会がある一つの価値観を決めてしまう恐れがある、ということがありまして、それは断念して、違う形をとった方がいい、ということで、今回の企画になりました。


もう一つ、考えたことは、この学会は研究者だけでなく演奏者も多く関わっておられる、ということで、両者の方々が一緒に学会を運営していくにあたって、例えば、来年は学会誌を発行することが目標に上がっています。


そういったことをやっていく上で、どういうふうに議論を重ねていったらいいんだろうか、ということ、研究者と演奏者がどう対話していったらいいのか、ということを、考えていく必要がある、ということがありました。


そういうことで、今回の大会の大会テーマ『音楽即興と言葉:演奏者/研究者の境界を超えて』、どういうふうに研究者と演奏者が言葉を交換できるのか、ということで、このように決めさせていただいた、という経緯があります。


それで特別企画のラウンドテーブルということで、本当は机が丸いはずなんですが(笑) じゃなくてもいいんですが。フロアの方からも言葉を出しながら進めていくということで。


では、タイトルが「音楽即興と言葉ー他人に聴かれない即興」です。


よろしくお願いします。







「音楽即興と言葉ー他人に聴かれない即興」



●寺内: ラウンドテーブルということで、自由な意見交換ができればいいかな、と思います。シンポジウムみたいに前に何人かパネリストがいて、という形でなく、みなさん一人一人対等な感じで、気軽な雰囲気で積極的に発言をしてくださったらいいかなと思います。


また、研究者の方もいらっしゃると思いますし、実際に即興演奏を実践されている方もいらっしゃると思うので、それぞれの立場からいろいろな意見がでてくれば面白くなるかと思います。


先ほど、評価のことからいろいろあって、こうなったという経緯をお話いただきましたが、その評価について考えたとき、即興演奏をやった結果としての音楽を評価する、ということだけでなく、即興演奏の行為そのものを考えていかないといけないかなあ、これは私個人が思ったことです。


それと評価ということになったとき、自分以外の他人の目が入る、ということを考えながら、こんなテーマを選んでみました。「他人にきかれない即興」というテーマです。


前半は私、寺内の実践を取り上げて、後半は歳森の実践を取り上げたいと思っています。


話し合う材料として、いくつかの問いを私たち2人が用意しています。その問いについて考えていきたいのですが、もちろん、この問いは私たち2人が自ら設定した問いですので、それにしばられる必要は全くないと思っています。


みなさんから新しい問いがでてきたり、別の方向に行くのもむしろ面白いんでないかなあ、と考えています。








「耳の音楽」寺内大輔


●寺内: さて、まずは私の実践なんですが、2003年に私は、『耳の音楽』というタイトルの即興演奏を発表しました。


この中には、実際に演奏したことがある、という方もいらっしゃるかもしれません。ここでもう一度演奏してみたいと思います。長くないので。


この作品は「みんなで一緒に演奏できる」というところがすごくいいところなので、ちょっとお付き合いください。


では、『耳の音楽』の演奏に入りましょう。自分の耳をさわっていると、かなり大きな音がきこえると思います。さわっている音ですね(実演)。


例えば、耳の殻を閉じるようにして、トントンと指でノックしてやると、軽くノックしているだけなのに、ドド、という非常に迫力のある音がいたします(実演)。


爪でガリガリッとこすっていくと、かなり大きな音がきこえると思います(実演)。


また、グーッと手で押さえつけていくと、持続する低音が、ゴーッという感じできこえてきます(実演)。


軽く覆いかぶせるようにすると、空気の音か何かでしょうか、シャーッという、高音のような音が持続したりするのがきこえる(実演)。


また、ちょっと指先が髪の毛に当たったりすると、チリチリチリッという音も味わうことができます(実演)。


このように耳や耳の周辺をさわることは、すごくさまざまな音を自ら作り出せるので、これで即興演奏をします。


この即興演奏の一つの特徴は、「自分にしかきこえない」ですね。自分にとっては非常に大きな音がきこえる音楽ですが、他人にきかせることはできません。録音もできません。そのような音楽です。


ちょっとやってみたいと思います。他人にきかせることができないので、この場にこれだけの人数がいても、同時に演奏することが可能です。このような音楽はなかなかないと思っているのですけどもね(得意気)。やってみたいと思います。


演奏時間は特に決まりはありません。が、一緒にみなさんで演奏するので、あまり、演奏時間に個人差がでてくると、ある人はすぐにやめてしまい、ある人は一晩中やるかもしれないので、3分程度と決めさせていただきたいと思います。


ただし、3分たったときに、私が、「はい、3分たちました、はい、ヤメヤメ」と、いうのは、あまり音楽的に美しい終わり方ではないと思いますので、だいたい3分位たったら、みなさん自主的に演奏を止めてください。


もちろん個人差があると思いますから、早く終わった方は、一番最後の方が終わるのを待ってあげてくださいね。


私はここからみなさんの姿が見えますので、全員演奏が終わったなあ、と思ったら、この演奏を終わりたいと思います。


さて、演奏に際しまして、一つ心がけてほしいことがあります。それは何か、というと、自分にとって面白い音楽、いい音楽―――これは評価ということとつながるのですが、自分にとってすごくいい音楽を作れるように、心掛けて欲しいんです。


他人にきかれていませんから、きいているのは自分だけなんで、どんなことをしても大丈夫ですから、自分が満足できる、という音楽を演奏してほしいと思います。


それがこの作品のとても大事な点だと思います。


では『耳の音楽』という即興演奏をみんなでやってみましょう。


・・・約3分の演奏


ありがとうございます。いかがでしたでしょうか。素晴らしい音楽が奏でられましたでしょうか。


私の場合、即興演奏ですから、「今日はよかったな」とか、「今日はいまいちだったなあ」というときが、実際あるんですけれど。


今まで、私、もう、100回超えていると思いますね・・・・・・演奏してきました。その時、その時で、そういうのがあるんですけども。


いつも決まって大好きな瞬間があります。毎回です。それは何かと言うと、終わった直後なんですね。


終わった直後は、耳がじわーっと生暖かくなって、辺りの音の風景のようなものが、非常に新鮮に感じられます。そういう瞬間が、最後にいつもあって、この音楽の大好きなところの一つなんです。まぁ、それは余談なんですけど。


余談ついでにもう一つ言いますと、この『耳の音楽』にはパート2がありまして、パート2は自分で演奏するのではなく、他人に演奏してもらうというバージョンなんです。


他人に演奏してもらうバージョンは、演奏している本人に演奏がきこえないんですね、音楽が。演奏している人はその演奏されているが、どのような音楽をきいているか、ということを想像しながら演奏する。


演奏されている人がきいている実際の音楽と同時に、演奏している人が手触りから想像する。想像上の音楽と言うのがそこにある、そういう状況になると思います。


ただ、パート2に関しては、他人に耳なんか触られるのが、プライベートというか、赤の他人だったらどうかとか・・・・・・誰でもいいというわけではないですね。


ですので、このような公共の場では、ほとんど演奏したことがありません。


ですから、今日もやりません。そういうのがあるんだよ、ということだけ紹介しておきます。


余談ついでに、パート3というのもあります。実際に『耳の音楽』をやっているときというのは、自分の奏でている音楽に集中できますけど、逆に外からの音をほとんどきかない。


パート3というのは非常に難しいバージョンなんですが、外からの音を、何か音楽でも音でもいいんですが、そういう外の音をききつつ、外からの音と自らの演奏を共演させていく、というバージョンがパート3になっております。


パート4はまだありません。もしかしたらこれからできるかもしれないです。


そういうことで、ざっと作品解説をさせていただいたんですけども、これから実際、この即興演奏についてラウンドテーブルの議論に入りたいと思います。ご意見をいろいろ言ってくれたらいいなあ、と思います。





(議論)


●寺内: まずこの作品の中で非常に重要な要素を、自分で満足できる音楽と言いましたけども、自己満足という言葉はあまりいい意味で使われることは多くないですね。


「あんなのは自己満足にすぎないね」とかね。どちらかというと、よくない意味で自己満足という言葉が使われることが多いかと思うんですが。


この作品は、「自己満足というものを徹底的に追求していこう」という態度があります。


「他人にきかれていない」という状況を作り出すことによって、その自己満足というものの純度といいいますか、そういうものをを高めていきたい、と考えているんです。ただ、それを考えたときに、その前提となる問いが、他人にきかれているか、きかれていないか、っていうことが、即興演奏の内容や意識、あるいは心構えみたいなものに影響があるのかどうか、あるとしたら、どのような影響があるのか、ということを、私自身どうなのかなあ、と思っているところなんですけれども、いかがでしょう。


演奏をされる方も多いと思うんですが、他人にきかれているか、いないかの違いみたいなものを、何か言ってもらえれば、面白いと思うのですが。


●参加者: 今、すごい興味深く演奏させていただいたのですけど、やっぱり初めての体験だなあ、と。自分もたまに即興演奏やったりするんですけど、今回、この『耳の音楽』をしたことで、普段自分が即興演奏しているときに、人のことを気にしていないつもりだったのですけど、「あ、かなり、お客さん、というか、きいている人のことを配慮していたんだなあ」ということに気づきました。


いきなり、「こんな展開つけたら、唐突」とか、逆に「こんなことずっと続けたら退屈だろう」というのを、今は自分の耳でやっているときは思わずにすんだので。


逆に言えば、即興演奏のとき、ぼくはですけど、考えていたんだなあ、と気づけて面白かった。


●寺内: ということは、そこの根底には、もしかして「自分がいいって思うことと、お客さんがいいって思うことが、必ずしも一致してないんじゃないか」という気持ちがあるような気もするんですけど。そういうことなんでしょうか。


●参加者: 正にそういうことだと思います。


●参加者: きいている方がいいなと思うことと、自分が演奏していていいなと思うことのバランスみたいなものを、常に考えている気がします。自分一人よがりになるような演奏がいい、っていう会場の雰囲気みたいなものもありますし。全然、そういう即興演奏が初めて、というお客さんのときは、もう少しなんか。


そういう意味で、不純なやり方と思うんですが、そういうバランスみたいなものを考えます。


●寺内: 今、不純とおっしゃいましたけど、よくないことと思われています?


●参加者: そうですね、やっぱり、ある意味、即興演奏というのは純粋なもの、本能に根付いたもの。それを、こう、きいてもらっている人によって、変えるというのは、ある意味で、自分そのものではないような感触はありますね。


●参加者: 要は誰かお客さんがいるんであれば、そのお客さんのために演奏するという意味で、そういう責任持てよ、みたいなことが入る。


こういうように自分の耳でやると自分がすごい何と言うか、音楽というか、マッサージというか、気持ちいいじゃないですか。


自分がお客さんで、自分のためにやっていたら、だったらいいんじゃないのかな。


というのは、お客さんの前で演奏するときは、お客さんのことをいい加減にして演奏することは、考えられないことです。


そのために自分が今まで思ってきたことを駆使して、お客さんとの空気の作り合いみたいなこと、そのことはしっかり考えていきたいと思います。


自分ひとりがお客さんなら、お風呂の中で、一人で歌ったりすることがあるじゃないですか。そういうのも考えようによっては立派な即興になるとは思います。ただ、それは「私のための作品」ということになるかと思います。


●寺内: 今聞いていて、違う問いがでてくるんですが、自分がこういうのがいいとか、自分の求めることは、何となくわかっていると思う。


お客さんがどんなものがいいと思っているのは、わからないですよね。


でも、わからないんだけど、今いくつかでた意見をきいていますと、「何となくそれと折り合いをつけていく」とか、「お客さんが喜ぶようなことを意識する」というような言葉がでてくるというのは、どこかで、「お客さんはこういうものを求めている」、「こういうものがいいとお客さんは思っているんじゃないかな」という意識があるような気がするんですけれど。その辺どうでしょうか。


●参加者: わかんないですよね。「こうじゃないかな」と想像してやるしかない。その場の空気。


●参加者: 自分が想像して、「お客さんはこういうのがいいんじゃないかな」と想像するのは、結局、自分の想像だから、自分の頭の中のことだから、自分の頭の中にあるお客さんのイメージというのがあって、結局、お客さんじゃなくて、もう一つの自分というか、あるいは、自分が投影しているお客さんのイメージとか、そういうことなんで、結局のことろ、自分が退屈しちゃう音楽じゃあ、きっと、自分の内なるお客さん、そう、自分の内なるお客さんですよ、も退屈するだろうし。


それを考えると、不純という言葉は私は非常に抵抗があるんだけど、人前でやる以上は、それはその人のためにやるんであって、自分のためでもあるけど、しかもお金を取っている以上、その人たちに何か満足を与えなくちゃあいけないという義務が当然生じる。


金銭に関係あるならね(笑)


それを不純と思う必要はないけれども、どうせ想像したところで、それは自分の内なる想像にすぎないということがあるんじゃないですかね。


ついでに言っていいでしょうか。『耳の音楽』、これは、即興である必要はないわけですね。作曲作品もできるわけですよね。


●寺内: 作曲作品もやろうと思えばできます。


●参加者: 「記譜してこれをやってください」とみんなで一斉にやることも可能なわけだし、だから、きかれる、きかれないもあるけども、一緒に体験することも可能ですね。


●寺内: そうですね。


●参加者: 後、『耳の音楽』は身体的につらいものがありましたよ、私。腕とか肩が痛くなっちゃって。首がこうなっちゃって、3分以上は自分の場合、無理なんじゃないか(笑)


●寺内: それはすみません。


●参加者: 楽器のためにできている、解剖学上の構造じゃないんで、むしろ、人にやってもらうバージョンの方が楽なんじゃないか。


あるいは補助器具を用いてやるのがいいんじゃないか(笑) かなりつらいですよね、だんだん年取ってきりなんかすると(笑)


それで、ご自分でやっておられるところを見ると、こうやって(前かがみで)おられますね。


●寺内: 私のクセで前かがみになる。


●参加者: それやっぱり、ここがつらかったですよ、ここが。一晩中は無理だと思いました。


●寺内: くれぐれもご無理をなさらないように。『耳の音楽』が原因で一生そうなったら、私、責任とれませんので(笑)


会場(笑)


●参加者: 音楽療法やっているものです。まず私自身として最初に、きかれているか、きかれていないか、という前に「自分がこれをやりたいか」ということがある。


モチベーションが正直なかったんですね。すごくアイディアは面白いな、と思ったんですけど、今、新幹線から乗り継いでけっこう疲れているんで、いろんな音を出してみて、けっこう苦痛な音が多いなあ、って思って。


本当にやりたいかなあ、って思って、さっき仰った自分の中のもう一人のお客さんというのが、あんまりよろこんでいなかった、と思います。


でも試行錯誤していって、耳を押さえると、シャーという音がきこえて、それも自分にとっては雑音で、それを閉じたら何もきこえなくなって、無音がとてもいい自分にとっての『耳の音楽』だって、そこに行きついた。ということがプロセスとしてありました。


シチュエーション上、やらなくてはならない状態だったとき、そのモチベーションが重要だなあ、内発的にそれがどうかなあ、というのが一つ問題じゃないかと。


後、もう一つは耳の世界をふさぐと、自分の世界に入れて、人と同じだったり、きかれたりしなくても、自分にとってありがたいことだなあと。


所謂、満足する空間だったなあ、自閉症のお子さんなんか、よく耳をふさぐんですね。あれってもしかしたら、こういうことに関係しているのかなあ、っというのを思いました。


●参加者: 主観と客観の問題が出ていました。私は即興演奏は、ある意味、衝動で情動じゃない。衝動は一瞬一瞬変わっていく。


客観って、これまでに、きいた音楽に対してどうあるべきか、という行動的な部分が客観なのかな、すごく思う。


●寺内: 以前、別のところでこれをやったとき、ある作曲家の方から言われたんですが、「演奏時間が決めなくてやるんだったら、(その方にとっては)初め、中、終わり、みたいなそういう意識はない。そのときそのときの衝動で演奏するだろう。しかし、寺内さんは今回、3分と言われた、すると、3分で形を作ろうという意識が出てくる。時間を決めてやるか、決めずにやるかによって、全然意識が違います」という意見があって、非常に興味深いな、と思った。


そのことと、今言われたことは関わりがあると思うのですが。


●参加者: 時間が決まっていなくても、今までの時間に対して、次どうする、というのがあると思います。


10分にしろ、1時間にしろ、決められたら、もちろん、それによって影響を受けることはもちろんあるんですけども、それとは、別にそれまでの時間は関係ある。


●寺内: 『耳の音楽』だけじゃなくて、即興演奏全般に対して通じることと思うのですが、おそらく、「3分でやろうよ」、「10分でやろうよ」、「1時間でやろうよ」、というのは、意識は全然違ってくるだろう、ということはあるなと思います。「いや、ないよ」と思われる方もいらっしゃると思いますが、どうでしょう。


●参加者: 3分で起承転結になる音楽に慣れている方はそうなるでしょうし。一方、一晩中やろうと思えばできると思う。一晩中でストーリー、物語性、何か構造を持たせる。


単に24時間集中し続けるのは難しいので、構造を持たせる。そういう音楽が多くて、それに慣れている人は、さきほどのように。


●参加者: 3分と決めていれば、その間にきちっと、かますところはかまして、押さえるところは押さえて、メリハリをつけて、1個の作品を作ろうという意識が働く方が多いのでは。


●寺内: ○○さん(直前の発言者)もそう?


●参加者: 私はその時によるんですよ。時間なんかどうでもいい、と思うときもあって、みなさんに迷惑をかけてたりとかね(笑)


●寺内: 戻るんですけど、演奏会で、『耳の音楽』ではなくて即興演奏をやるときに、小学生位の子たちの前で演奏するとか、あるいはライブで大人の前でとか、いろんなことがあるんですけど、子どもたち相手に演奏しているとき、今子どもたちに受けている、というのが何かわかったと、そのことをつい学習しちゃって、よその小学校に行ってもやっちゃう。


「これこないだ受けたから、またやっちゃおう」ということがでてくる。


そうすると自分の即興演奏というものが、「お客さんとの関係の経験の中でだんだん方向付けられているのかなあ」というのは認めざるをえないようなところがあって、それがいいか悪いかに対してはというのは、私自身は非常に微妙に思っています。


●参加者: それはいいんじゃないですか。学習したわけで、そのお客さんの反応によって固定しちゃうというのは。


自分が最初に出してこういう感じの音楽性というの。他の人ではなくて自分のやったもの。その中で子どもたちが好きだったということ。


それを捨て去ることは全然ない。


次のときに、同じようなアイディアを出しても、全く同じにはならないと思う。


自然に寺内さんの中から出てきて、同じことをやろうと思ってもやれない。


場所が違うだろうし、楽器も違うだろうし、天気も違うだろうし、その場のアコースティックスも違うだろうし、季節も違うだろうし、例え同じことをやろうと思ってもできないと思うんですよ。


子どもたちの反応から何か得たら、それを捨てることはないと思うんですけど。


●寺内: そうですね。


●寺内: 何かモチベーションというか、自分がどういう音を求めているか、というのから始まっているとは思う。それと、どの位でどんなものが飽きるのかとか。


●参加者: 脳内演奏の場合はどう?


●寺内: 脳内演奏は、ぼくにとってはややハードルが高い作業で・・・・・・難しいという意味です。想像上の音楽でずっと即興演奏するというのはぼくには難しいです。


即興演奏って「何かを考えて演奏する」ということは、もちろんあると思いますが、同時に考えなくて手が勝手に動いちゃった、息が出ちゃった、そういう反射的というのか、直感的というのか、その瞬間の判断でスポーツ選手が体動かすみたいな・・・・・・。


『耳の音楽』は次どうしよう、って考えて動くというよりも、手がいって、それと一緒に頭の中も動いているような・・・・・・。


ぼくにとってはそういうところがあるので、『耳の音楽』の方が脳内演奏よりは楽にやれる。それと、実際音が出ているというのも楽しいなあと。


●参加者: 質問です。練習と本番というテーマでいいんですかね。参加者の方でライブエレクトニクスやっている方がいれば聞いてみたいんです。いったいどんな練習しているのかなと。本番前に。ぼくはまだ3年目で新米なんで、どんな練習しておられるのかな、と質問です。


●参加者: ライブエレクトニクスは事故が起こりやすいので、本番に本当に音が出るのか、というのが一番怖い。逆に音が止まってほしいときに止まるのか、というがあります。練習というか、サウンドチェック的な積み重ねかもしれないです。


後は、音量のことはあります。急に爆音が出ちゃうと、きいている方々に、いくらそれが自分が大好きだと言っても限度があるので、そういうことがないようにする。


逆にきこえないような音というのも、そういうこともあるんでしょうけれども、ここから上がきこえるかな、という、そういう音量のチェックを。


●参加者: 普通、生楽器の練習は、およそ見当がつくんですよ。自分もやっていました。これとこれは30分やって、後はこれを1時間ずつとか、だいたいわかるんです。指の動きとか、マウスピースのくわえ方とかね。


コンピュータを操作する場合、クリックを速くしましょう、とか、そういうことやるんですか、という話です。


そこで事故ったとき、あたかもやったようにごまかす方法とかやるんですか。


●参加者: それはたくさんあります(笑)


●参加者: それがききたいんです。


●参加者: 事故ったときというのは、それこそ人がいるかいないかに関わるでしょうが、お客さんがいる場合は、もちろんそういうふうに隠します。これはこういうふうに演奏したかったんだっていうふうに。


もう一つは何でしたか?


●参加者: フィジカルなことは?


●参加者: 私は個人的にやっているのは、パソコン自体を持ち上げたり、それによって鍛えたりすることはあるかもしれません(笑) 通常の演奏じゃないと思います。


他の方は、クリックの速さを鍛えたりとかは、ないと思います。


●参加者: それと、昨日ヤフーオークションで○○の○○という作品を買ったんですけど、さっきの3分間の作品の方がはるかによかったんですよ(笑) 


●寺内: 時間がそろそろなので、最後に、若尾裕先生にお聞きしたいことを用意してきているんですが。以前、若尾裕先生が原稿書かれていた『音楽文化学のすすめ』っていう本の中に、ラカンという人物が出てきて、「自分の欲望が実は他者の欲望だ」みたいなことを言っている。それはどういうことかな、というのをお聞きしたいな、と思いまして。ごめんなさい、いきなりで。


●若尾裕: いきなりやばいところ、不勉強なところを突かれて困るんですけど(笑) ラカン、そんなに知らないんですけど実は。


人間は無意識の中に生きていますよね。無意識って自分のものだって、フロイトはそれぞれがためこんだ無意識の中に住んでいると考えた。


実は無意識っていうのは無意識じゃなくて、みんなの意識と意識の間の関係でできている、と言ったのがラカンだと思うんです。


ラカンの面白いゲームで、背中に丸かバツを書いた紙を貼る、お互いに見えない、そういう人を3人刑務所に入れておいて、自分が丸かバツかわかったら出ていっていい、そういうゲーム、というか、そういうルールを決める。


不思議なんですけど、すぐわかっちゃう。3人いて、あなたは丸だよ、とか他人から言っちゃいけない。他人のはわかる。


これで何を言おうとしているか、というと、そういうふうな糸のようなもの、無意識みたいなもので、人と人が結び合って構造化されているから、自分が思っていることは、あなたが思っていること、みたいなことができあがっていく。ややこしい関係が。


●寺内: すみません、ややこしいことを、いきなり聞いて。


●若尾: それがどう関係するのですか?


●寺内: それをお客さんと演奏者との関係になぞらえてみれば、面白くなるかも。


●若尾: ああ、そうですね。みんなが共感していることは、実は中での見えない糸でお互いの振りを見て、関係ができている。


言ってみれば音楽というのはルールからできているものだから、これは音楽で、これは音楽じゃないみたいなことは、どこで決まっているか、というと、みんな人がやっている音楽を見ながら、お互い規制し合いながらルールができたところがあるから、そういうところは、とてもラカン的。


●寺内: ありがとうございます


●参加者: それがさっき私がちょっと言った内なるお客さんという関係があって、例えば人格というのは他人の評価の積み重ねとか。


そうすると自分の音楽性は、もしかしたら他人からのフィードバックの積み重ねかもしれない。


それで自分はこういうお客さんにどういうことが受けるか、それは結局他人からのフィードバックの積み重ねであると同時に、それを知らないうちに、内在化して、自分の頭の中に、他人であるお客さんが住んじゃっているかもしれない。


もう一つ、その人の音楽的な性格じゃなくても、その人の性格によって、どれだけ人の言うことを気にするタイプの人だとかね。


人によっては、周りの人の思っていることをこちらから先回りして想像して先回りするタイプの人と。


けっこう気にしないで何でも言っちゃったりなんかする。そういう音楽的人格と普段の人格と関係があるかもしれない。


私は普段そんなことは全然、考えないんだけども、でも今こういう話になったから、そう言えば、そういう話はいろいろあるなあ、って。


●参加者: そういう話になると、さっき子どもの前でやったとき、これが受けちゃって、他でもやってみようみたいな話。


即興じゃなくて私はオペラにいる。長い間、人がいっぱい歌ってきて、それを、きいたり、学習している。例えば、私がオリジナルな歌い方をしたいと思っても、果たして自分が本当にオリジナルな、もういろんな影響を受けているから、本当にオリジナルものかどうか自信がない。


●寺内: そうですね。


●参加者: 『耳の音楽』、これを作品って言っているんんですけど、これはどういう意味で作品なのかな、と思って。


他人にきかれない、ということは、自分の中だけで、今みんなそう言っているから一応作品になっているかもしれないけど。


作品になるかどうかは、個人に任されている、演奏者に任されている。それを寺内さんからそれを作品として提示する、ということはどういうことなんでしょう。


●寺内: 私がもともと即興演奏する前に作曲を中心にしてきた何年間がありまして、多分、そのときのクセというか、題名を付けて作品にしちゃいたい、ということがあるかもしれないと思います。


これだけやり方がはっきり決まっているものですから、作品としての独自性みたいなものは、この『耳の音楽』にはあるのではないかな、とは感じています、自分では。


●参加者: それぞれ演奏者の方が作品と思ったのかどうかに興味があります。


●参加者: 嫌味みたいな言い方をすると、自分で何でもいいから演奏して、それを録音して、自分だけで聞いているだけみたいなものですね。


●寺内: ぜんぜん嫌味じゃないです。


会場(笑)


●参加者: そこで、作品だと判断するのが、寺内さんなのか、演奏者なのか、というところで、話がややこしくなる。


●寺内: 「家で何かを演奏してそれを録音して自分できく」ということと、確かに似ている。その方法自体を作品化している、というふうに、ぼくは捉えている。


結果としての音楽は人それぞれある。方法そのものですよね。


楽譜に書いてあるような作曲作品でも、楽譜は音楽の結果を書いているだけでなくて、「これこれこういうふうにしなさい」ということも書いてある、とも考えられるので、その部分を作品と捉えているかもしれないです、私は。


●参加者: マルセル・デュシャンの「泉」が有名じゃないですか。それが作品かどうか、という疑問があった。でも、やはり彼の作品になっています。


それは概念の美術で、それは作品と言えます。それを思いました。


●寺内: ありがとうございます。


話は盛り上がってきていますが、今から一旦休憩をとって、5分位後に後半の部を始めたいと思います。


後半は、歳森彰の無音ストリートを紹介して、それに関するトークをしていきたいのですが、『耳の音楽』と無音ストリート、やや関係あるところもあれば、全然関係ないところもたくさんあります。その点の共通点や違いなども意識しながらお話が進んでいくと、より面白いかなあ、と感じています。


拍手


(文字起こし:歳森彰)

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