日本音楽即興学会 JASMIM

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 エクセター大学シンポジウムレポート#3-1(若尾裕さんへインタビュー前半)

記載:2010年11月28日

JASMIMレター0015(2010.11.28)
[エクセター大学シンポジウムレポート#3-1(若尾裕さんへインタビュー前半)]
インタビュアー・編集:歳森彰

同シンポジウムで基調講演をされた若尾裕さんにお聞きしました。

本文

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JASMIMレター0015(2010.11.28)
[エクセター大学シンポジウムレポート#3-1(若尾裕さんへインタビュー前半)]
インタビュアー・編集:歳森彰
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SocArts Symposium ‘Flirting with Uncertainty: Improvisation in Performance’
エクセター大学ソックアーツ・シンポジウム「不確実さとたわむれる パフォーマンスとしての即興」

同シンポジウムで基調講演をされた若尾裕さんにお聞きしました。

———–(インタビュアー) 今春、イギリスのエクセター大学での、即興に関するシンポジウムに、この学会からも何人かが参加されたという噂をお聞きしてから、その概要がわかってくるまでに大分月日が経ちましたが、原真理子さんや、沼田さん、嶋田さんからの情報が、今、JASMIMレターに載っている最中です。その時、火山の噴火がありましたっけ?

(若尾裕) どうでしたっけ? どっちが先でしたっけ?

———–何だか噴火で留め置かれたとか? どこか、スペインに?

あれはまた別の話で。

———–その後でしたっけ。

噴火は4月だったかな、イギリスに行ったのは3月で、そのときは、まだ起こってなくて。その後の噴火で、ヨーロッパ(の航空事情)がさんざんな目にあって、5月はもう落ち着いていたからスペインに行ったんです。そしたら、また、噴火で、最初は北欧へんだけだったんですが、だんだん南ヨーロッパの方まで、スペインの方にも流れてきて、留め置かれました。1日でよかったですが(笑)

———–そうでした。さて、そのシンポジウムの全体的なこととしては?

ティア・デノーラさんという音楽社会学者、最近は有名な人になってね、今、音楽社会学で、いろんなところで名前が出てくるような人なんですけど、本もよく引用されてて。シンポジウムは彼女のゼミを拡大したようなもので、ほとんどゼミ生がやっているような感じです(今年は原真理子さんが担当)。

———–テーマは音楽即興に関する?

「不確実さとたわむれる」というのがタイトルで。

———–それで若尾裕さんは講演されたのですね。

はい。

———–それに関してお聞ききしたいのですが。その前の、この学会の第1回大会の講演「即興についての議論をはじめよう」のときと、どんなふうに変わっておられるか、というのをお聞きできるでしょうか?

あのときの話の続きをしたようなものです。基本的に、即興というものは、そんなに大そうなことではなく、ちょこっとした創意工夫のようなことなんですけど、西洋の方では、それが、創造、クリエイションという言葉でとらえられてね。聖書の中では、クリエイションとは創世記のことで、つまり、神が6日間で世界を創られましたという話なんですね。で、どうしても、創造、クリエイトする、というと、西洋人は、そこにルーツが乗っかっちゃってる、そこにつながっちゃっているところがある。で、それは病気ではないでしょうか、というようなことを言いに行ったようなものです。

だから、新古今和歌集の中の歌(「ほのぼのと明石のうらの朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」)とかも紹介して、日本のクリエイションはこうなんです、という話もしました。この歌が言っていることは「明石から漕ぎ入れてきた船が、だんだん見えてきて、そして霧の中に消えていくなあ」というだけのことで(笑)、それが悲しいだとか、美しいだとか、何にも言ってない、それだけなんですよね。それでも、日本人は、そんなに和歌だとか古典の教養がない人でも、その情感はわかるんだ、と。

———–はい。

そういうことで、西洋は何か決め付けないといけないので、日本は西洋とはクリエイションという考えがずいぶん違うからね。そこで重くなり過ぎている。即興に関する議論も、そういうふうなものを、非常に引きずってしまっている、という話です。大分忘れちゃいましたけども。

———–大学受験のとき、古文で「もののあわれ」っていう言葉がずいぶん出てきましたね。思い出します。

はいはい。そうなんですよ。どんどん世界が創られていく、というんじゃなくて、逆に、ほろびていく、みたいな美学の中で、クリエイティブでも全然方向性が逆だったりする。わびさびとかでもそうですよね。どんどん掛け算式に増えていくという発想がないから。

———–構築じゃない。

というか、言って見れば、拡大する、ということかしら。西洋が芸術で近代になってずっとやってきたことというのは、構築もそうですけど、増大と、過去を見ながら改良することだった。社会学の講座だったから、アンソニー・ギデンズという社会学者の「再帰的近代化」っていう、社会学の方から説明を試みました。その概念では、現代になると、個人が自分自身を再帰的に近代化しようと、前と違ったものをつくらないといけない、というように、拍車がかかっちゃって、それが今のような、即興に対する視点になっちゃってる、あんまり、それはいいことじゃないんじゃないか、って。

———–2009年の大会の若尾さんの講演は、大まかにさっとまとめると:
・即興研究が学術的にされてこなかったのは、テキスト中心主義だったから。
・即興とは新しい行為をすること、というのは、西洋近代の進歩主義的な歴史観ではないか。
・そうではなくて、即興とは時間のプロセシングに関わる操作ではないか。
・その時間は個人の意識から発生するから、西洋近代的な自我の考えに汚染されている。
・だから別の軸から捉えていく必要がある。
みたい感じだったと思うんですけど。

はいはい、それと問題としては同じような、時間というものを操作することが即興だろう、と。時間に何らかの切込みを入れていくためには、音じゃなくても、時間上のものなら、即興は可能となる。即興する、ということは、他の行為と絶対違うことは、時間があるかないかですね。

絵とか即興はできないです(絵は定義的に止まっている)。でも即興的に絵を描くというのはできる。それは時間の上の行為だからです。どんなことをやっても、即興というのは、時間を操作するというところ以外には落ち着けないと思うんです。そこのところの時間の考え方というのが、西洋と東洋とでずいぶん違う。ま、西洋だけが特殊だ、ということかしら。

———–・・・・・・

次の質問を考えてるんですか?(笑)

———–はい(笑)・・・えー、じゃあ、即興の研究の方法というのは、そういう方法が何かあるんでしょうか? 西洋近代的じゃないような。

まー、それは。ぼくが言っていたのは、方法論の前に、それをどう捉えるか、という問題なんです。その視点からどういうように研究するか、というのは、まだ全然考えていないんですけど。言ってみれば、ぼくがやったのは、哲学や歴史の流れの中で考えてみて、西洋近代が何だったのか、ということです。即興というのも、ある意味で、西洋近代、さきほどのクリエイションの概念を抜け出した方がいい。西洋近代の中で、即興、即興といい始めたけど、そういう創造のナラティブなものがずっとかぶさってきて、即興する人は、すごく天才で、すごいえらい人で、というふうな天才神話が生まれるわけですよね。

もちろん才能ある人が才能あることをするというのはいいことでしょうけど。必要以上に創造の天才神話を盛り上げてしまっちゃってて、そういうのって、西洋以外の音楽ではあんまり言いませんよね。例えばアフリカなんかで、とても太鼓がうまい人や、歌がうまい人がいても、あいつはうまいな、って言われるかもしれませんけど、特別な天才に祭り上げられることはあまりないですね。

そこに特別なクリエイションという見方がはいっている。そういうものは、もう止めてもいいんじゃないか。即興の発展のためには、もっと日常的、誰でもやるような行為として捉えていく方がいいんじゃないかな、と。


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