日本音楽即興学会 JASMIM

The Japanese Association for the Study of Musical IMprovisation
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 角正之さんへインタビュー#2:角さんにとっての即興]

記載:2010年12月31日

JASMIMレター0022(2010.12.31)
[角正之さんへインタビュー#2:角さんにとっての即興]
インタビュアー・編集:歳森彰

えっと、じゃあ、今のところで、2つの、両面のことが出ましたので、次の話題の、角さんにとっての即興、に行きたいと思います。

本文

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JASMIMレター0022(2010.12.31)
[角正之さんへインタビュー#2:角さんにとっての即興]
インタビュアー・編集:歳森彰
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———–(インタビュアー) えっと、じゃあ、今のところで、2つの、両面のことが出ましたので、次の話題の、角さんにとっての即興、に行きたいと思います。

———-今、言われた、即興行為、体がなくても、音楽が残るみたいなのは、即興行為とは違う部分かもしれないとか?

(角正之) そうね、即興というのは、ぼくにとって最後まで疑問がついてるんだけど、正解がないんですけどね。ぼくはまだ見つかってない、正解が見つかってない、正解がないのかもしれない。

ぼくがルーティンのダンス作品をつくらないで10年以上きている。そのつくらない行為を続けるというのは、即興に満ちている、命は即興に満ちている。

体から見たらとても実感的。でも音楽の人はそうじゃないと思う。なぜかというと、音楽は体以前に音がある。ぼくたちダンサーは生きて、体を見つめて世界が見えるんだけど、音を扱う人は、体以前に音があることを知っているわけでしょう。体をリフレクトするために、立て壁のように、響き返るものを立てる。4つの壁、天井などを含めて6つの壁から響く。どこかで音が豊かになるための最高条件、必要条件を音楽家は創造できる、音に対して、できる人だと思うんですよ。

ところがぼくたち(ダンサー)は具体的な音を体に一つずつ、自分の向けた方向に対する、自分が動いた方向に対する、体のドライブ、動かし方によって動きを紡いでいくんだけど、音をきいたから動くわけじゃないんですよ。

体がどうしたってなけりゃいけないんですよ。ミュージシャンは本来、体がなくても音をきける、創造できる、新しい意味での、新生な音、新しい生まれくる音をつくれる可能性があると思う。

じゃあ、即興はどうしてかと、なんであなたは即興ですかと聞かれたとき、つくるという前提は自分をフィックスすることだから・・・

———-つくる? つくる? フィックスする?

自分が作品をつくる、ということは、つくられたモノから見ることになる。

———-はい。

つくられたモノから見たら、つくるという行為すべてはクローズドになるんですよ。

———-固定化された作品。

固定化を純粋化したした形を、ぼくたちは作品と呼んでいる。そういう形じゃなくて、生きていることは純粋であろうと不純であろうと、生きている現実しかないということを、体の中に、受け皿として捉えることのできる体であれば、これは命のあるムーブメントとなるわけですよね。

表現とは言わないよ、ぼくは。即興が表現行為かどうかと言われたら、表現じゃありません。そこがキーワードとなるかもしれない。

ぼくが即興しかやらない、というのは、非表現化と言ってもいいですよ。即興を永遠に続けるのは、自分の即興行為を通して、ダンスの非表現化を試そうとしている。

———-非表現化? ちょっと難しいですけど。

これ、ぼくは別の言葉で表象限界って呼んでるんだけどね、人間が自分から見た世界と違って、第三者、観察者による表象の限界はどこかと。自分から始めたのに自分ではなくなるような。見た人からは、あなたではなくなる形に見えるようにやり方をしたいと思っている。表象限界は表現してないこと、そういうふうに考えるのね。

———-そこはちょっと難しい、というか。

普通の人が、普通のミュージシャンが、普通のアーティストたちが考えていること、表現する、表現しないということと、もうちょっと枠を広げて、コミュニケートする、コミュニケートしないという考え方を、どこまで自分のベースにおくか。

これを一回確かめないと、いつも何かしようと思っていることは伝達しようと思っていることなのかしら、いや、そうじゃないのかもしれない、一回疑いを持ったことがあるんだろうか。

即興することで、その人が行為を続けているとすれば、そこにもう一つ、そこに論理のベース、原理的な考え方を、一回立ち止まって考えないと、何もかもが曖昧になるような気がするんだけどね。

そこで問題なのよ、コンテスト。何のためにコンテストするのか。

———-(笑)あっ、えっ、ちょっと、その前に。えっと、角さんが即興で大事だと思っておられることを、今言っておられるわけですね。

だから、表現的ではなくて、即興を続けているというのは、永遠に非表現的な行為だと考えている作業が、一番リアリティが強いんです。

それはさっきも言ったけど、例えば、自分が作品をつくるということは、自分の意見を言う、ということでしょう。

———-はい。

ダンスと言葉とか、音楽と言葉は独立している、って言うけども、実際今までのダンス作品はみんな言葉で置き換えることができるものが多いわけですよ。

———-あー、そうなんですか。

ぼくの思うコンテンポラリー、ぼくの思う即興は、言葉で置き換えられない、終止形のないものをやりたいと思うよね。

終止形のないものは、すべて非表現的なんですよ。何が表現的に近いものと置き換えられるかというとコミュニケーション。

———-コミュニケーション?

関係性だけです。関係性には両者がある。インタラクティブなもの、どっちも、相互が、同時的というか、ずれというか、そのことの繰り返し。

微妙なずれがあって、お互いがどっちからともなく意見を言う。その関係が、最初から、はい、意見を聞きます、はい、言います、という関係で成立しているものじゃないので、すべて同時性の中にありながら、ずれている。

それを永遠に続けること、それが即興行為だと思う。ルーティン的作品をフィックスしたり、つくったりすると、絶対そのことは生まれてこないから。一番ぼくが最初に言っている、生命的だ、ということに戻るわけ。

すべて表現的であろうとなかろうと、体の現実、リアリティには、生命的であるかないか一番問われるだろう、ということです。音楽も同じこと。

———-一番最初に、生命的なもの、それとちょっと似ている、日常的なものということも言われましたね。

日常は具体的に生命的であると捉える、一種の現実味をおびたものですから、時間はタイムリーに、時計の針みたいに回っているものじゃなくて、自分の観点を決めればフィードバックもできるし、先にもっと進むことも可能なものだから、そこには時間性がないとも言える。

———-時間性がない?

時間性を超えたものだと思う、現実は。

———-現実は時間性を超えたもの?

それは自分から見た現実が生きた時間の中に捉えられればいい。生命的時間、その時間はずっとつながっている。若尾裕さんが言ってたかなあ、インタビューの中で。フランスの哲学者のベルグソンが言っていた。

多分、連続する、継続する行為を見つめていくことだ。ぼくは、生命の哲学を観点におけば、観察する側、受け取る側、発信する側、全部が共有している、共有したもののイーブンな価値の中で、イーブンな中で継続する方法だと思う。

そこには、比べるとか、どっちに価値があるとか、グレードを決める方法は何もないんじゃないかと思うね。

———-はい。

そういう一番大事なのは、ぼくたちがワークをするように、あるときの出来事から始まる、継続した時間の進み方がエンドレスだ、という考え方を入れないといけないんじゃないか。

すると時間はない。何秒後かがエンドかもしれない。エンドがあったとしても、一回一回終わって、また新しいものが生まれる、ずっとつながっていく。つまりエンドレス。

うまい、というか、より鋭い人は、エンドのやってくる時間を、いくつもいくつも重ねて、いかにもエンドレスに見せることのできる人だろうな。

———-はい。

音楽は創造的、全体に満ちている、という考え方を言いましたけど、そういう言い方からすれば、音楽は基本的にエンドレスですよね。

音楽は生命のレベルから見れば永遠にエンドレスですよね。切れることはなくて、切ろうとしているのは多分人間だけだと思う。人間の受け取り側の問題が、フレーズであれ、いろんな意味で切り取って構造的にしていくという方法を身につけている。

言葉もそうだけど、音楽は音楽の言語があるんでしょうね。ぼくはそこまでちょっとよくわかんない。

ただ、人間が感じるんですから、ぼくの中にも、経験した感情、経験した感覚みたいなものが、音楽に置き換えられてるのかもしれないね。それをぼくは感じたと言っているのかもしれない。

ぼくはダンスしないといけない。ダンスしているときはそんな余裕もないから、動きながら全感覚を開くんですよ。耳も体も、音に対して。すると音はすべてきこえているわけじゃない。動きに必要な音がきこえている。

イスに座ってきいているときは逆なんですよ。全てを開いているようで、一つの音しかきいていないんですよ(笑) 自分がききたい音だけを。

———-なるほど。

踊りだすと、自分がききたい音じゃない。「動きがききたい音をきいている。」

———-今のことはミュージシャンにとって、とってもヒントになりますね。

だから動かないといけないし、エンドレスで動き続けないといけない。

———-動きながら、具体的に、体を動かすということじゃなくても、何らかの動きの中できく、という。

そうそうそうそう、これは多分、統合失調症的な病気の人が、すべての音がきこえていて、止まってきく、ここで終わったという区切りのできないような病気の人がいるじゃないですか。

そういう心の病気、それは感覚の機能の差だと思うけど、その人に大事なのは、動きをするぼくたちが、一つのフレーズで、一息の中で動く訓練をしますよね。それは仮の終わりであって、また新しく吸ったら新しい動きが始まるから、つなげられたと言うけども、そういう病気の人はそういう区切りができない。

———-あー、はい。

ね、だからその区切りを呼吸とともに終わること、呼吸を吐き切って、もう一息吸いたくなるまで息を吐き続けなさい、ということを、体ごと教えていけば、ホントにきこえることが可能になると思うね。

仮のエンド、それをどんどんつなげていく。音は一つしかきこえていない、と言うけど、ぼくたちにはいろんなパルスの音がきこえていて、それをきいたと言わないだけ。ハチの羽音とか、アリの這う音とかは、ホントはきこえているはず。

ただ、耳の聴覚の周波数の関係できこえていないだけでしょう。ぼくはきこえてくる人がいると思う。病気の人はきこえていると思う。

———-(笑)はい、面白いです。

動き出すと、その一つの波長しか、だいたい合わなくなんねん。全ての音がきこえる、という言い方はできない。ホントはきこえてるけど、動きに対してきこえる波長をさがすようになる。するとイスに座って音楽をきくのとは全然違うようになる。


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