日本音楽即興学会 JASMIM

The Japanese Association for the Study of Musical IMprovisation
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ニュースレター

 角正之さんへインタビュー#3:音楽即興コンテストについて

記載:2011年1月3日

本文

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JASMIMレター0023(2011.01.03)
[角正之さんへインタビュー#3:音楽即興コンテストについて]
インタビュアー・編集:歳森彰
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———–(インタビュアー) はい、それでは、最後の話題の、音楽即興コンテストについて。さっき、比較可能じゃないという言葉が出ましたけど?

(角正之) ぼくは、ほとんどコンテストは意味がないと思う。

———-はい(笑)

即興対話ということから考えればね、コンテストをしたら即興ではありませんよ、となるでしょう。

さっきも言ったけど、誰ともつながる可能性もあるし、誰ともつながらないでもつながっている。そうすると誰かが発した音、始めた行為を、即興行為だとすれば、その人にとっては始まって終わることが可能な領域かもしれない。

でも、即興ということは二通りあるじゃないですか、自分が発したものと、受け取る人がいなければ、発したことにはならない、というものと。送り手の方から受け手の可能性を満たすことでしょう。永遠に。

即興するということは相手を決めないということなんだけども、即興した人が基本的に想像することは、この即興行為には仮想の受け皿を持っている受け手が無数にいるということでしょう。その無数にいる人に、こっちからの価値付けをしないことでしょう。永遠に。バリューを与えないし、価値もこっちからは設定しない。

———-こっち、って何ですか?

行為しかける、モチベーションを持っている人。

———-行為側から。

行為側から。そういうことを連続する、ずっとやっていこう。それをぼくは即興と思っているんだけど、それをコンテストしようというのは、卜田さんが言ってたけど。

確かに、盛り上がる、盛り上がらない、面白いやつ、面白くないやつ、っていますよね、それくらいの程度でするんだったら、それは即興の何というか余興みたいなものでいいかもしれないけど、いざ、コンテストを学会で、何かを、これをやることで何かの価値をフィックスしていくような感じがするんですよね。コンテストをするということは。

ぼくは原則的に、この学会を含めて、学際的な行為からすれば、イベント的な考えを採用してかまわないかもしれないけど、でも、純粋な即興ワーカーから見たら、そういうことは一切考えない方がいいと思いますね。

———-じゃあ、その何か、即興行為、角さんは非表現と言われてますけど、即興行為があって、それに対して何か言葉、何か言葉が出てくるかもしれません。どう見えたか、そういう見え方、というのが、けっこう、いろんな人の見え方があれば、それを言葉にする、ということは、面白いことではないですか?

例えば、ぼくがダンスの世界で感じていることはね、ダンスにはルーティンコンテストもあるし、音楽にもあるでしょう。即興だって、即興コンテストはないにしろ、即興をやっている人の面白さ、これは面白い、面白くない、というのは、ぼくの中である程度感じるときもあるよね。自然と比べているわけじゃないですか、ぼくの中でも。

———-はい。

何を比べている基準にしているんですか。それはぼくから見ているから、ぼくの中で、面白さ、面白くなさ、というのはあるんでしょうね、どっかで。でも、それを言葉にするときに、ぼくは気をつけないといけないのは、ぼくは確かに内側では説明のつかない比べ方をしていても、いざ、言葉にするとなると、ぼくはそれを次のように一貫してしゃべるわけですよ。

その人らしい、らしくない、だけ。その人を見たとき、その人がいかに生命的で、生き生きとしていて、輝いていて、それだけでいい、という言い方を、いつもぼくはするわけですよ。

———-はい。

それ以外の言葉は見つからない、即興には。何がいい、悪い、というのは技術的なことは確かに、ダンスでお互い共有している部分はあるから言えるけど、音楽家も多分そうなんだろうけど、器楽を扱う人、ノイズを扱う人、テクニックの操作とか、機材を扱うときの手法の複雑さみたいなことを扱えること、とかありますよね。扱えた上に、着想力の面白さとか、みんな多分それぞれの中に持っている、と思う。

単なる思い付きは何一つないと思いますよ。ホントに。即興には、単なる思い付きは絶対ない、と思う。ダンスにも同じ。

なのに、ぼくは面白くない、と思うのは、やっぱり本人を見た瞬間に、本人的であるかどうかが、本人から、感じられない場合だけ。それ以外はみんなOK。みんないい。

———-でも、本人的というのも、そう容易いわけではありません。

だから、そこがね、ダンスと音楽とちょっと違うのは、違うと何となく感じているのは、ダンスのときに、身体的でしょう。身体の、体の動きでしょう。

音楽はむしろ、身体も確かに扱いますけど、最初の動機にはなってるけど、それ以外もある。ヴォイスの人は別だけど。機材、道具、楽器とか、あるでしょう。そこに中間的な身体があらわれるよね。

ぼくらみたいな体に対する扱い方は、とてもドメスティックで絶対的関係だし、余裕のない関係におかれているけど、体と機材との間に、中間にもう一回意識がおけるような感じがするんですよ。

———-実際の体とは離れた、ちょっと、想像的な体みたいな?

そうだね。ダンサーはいつも、のっぴきならない状況におかれているのに、音楽家は音に対して、それほどのっぴきならない状況に、さほどじゃない、なんというか、現実は少ないんじゃないかとは思う。体がダンサーほど、音に対して誠実ではないな、とは思いますよ。

———-誠実ではない(笑)

誠実ではないよ(笑) そうですよ、だって、その音は必要だったかと問われば、いや他の音も出せます(笑)

———-(笑)

ダンサーはそんなことはできません。一つのブレスには、感じた感覚には、そこで一つの動きで生き切らないといけない。そこから何かテクニックを使って、新しい展開が生まれるけど、それは生き切ってから考えろ、というふうな。

音も、一つの空間に、生きて死ぬまで、音だと言えるまで考えてごらん。これはサイレンスにも通じると思うんだけど。ジョン・ケージが言ったサイレンスにも通じる考えだと思う。

だから即興はその音が無数に満ちている、ということ。一つの音だと、ジョン・ケージは言うけど、人間はもっといろんなものをきいていて、一つの音をきいた、と言っているにすぎない。ホントは病気のようにきこえていると思う。ウワーッとね。

だからこそ、そんなことをする人は、感じる人は、何か行為を選ばなきゃダメなんですよ、体の行為を。その音をきくために、ぼくはその音を選び取る、それと、楽器がものの見事に、空間の中で周波数が出会うように、自分の音の探り方、楽器の扱い方に、ものすごく長けているんじゃないかと思う。

マジシャンみたいな手つきを、ミュージシャンは基本的にもっと道具に対して持っている。道具と自分の語りかけの中間の空間に、見事なパッチワークを。そう、ぼくは思っている。ぼくたち(ダンサー)はその隙間がないんだよ。

———-はい。

生き切ってしまうけど、常に。

———-ま、今言われたのは、ある種の評価ですよね。

そう(笑) 音に対しては、評価してます、はい(笑)

———-(笑)

さっきも言ったけど、音とダンスが共有すれば、第三者から見たら、一つの体じゃないね、二つの体が存在する。でも現実に即興というのは、ぼくが想像したように、身体の共有性だから、音に対する身体、動きに対する身体が共有する場がほしい。それを第三者が見ることによって、音的身体、動き的身体であろうと、その場では、一つの身体に、協同できる可能性に満ちた体だと。

即興の場で、音を通してきいた動き、動きを通してきいた音が、同時的に生まれる。その関係において、即興ワーカーたちが、そこの場に提示してくれたら、一番の創造者はオーディエンスだと思う。

だから、オーディエンスが、これはすばらしい即興だとか、つまらない即興だとか、純粋なオーディエンスが評価するんだったら、いつもされていることだから、仕方ないなと思う。

———-(笑)はい

ぼくらがやることはないと思うよ。自ら、学会の内部でそんなことをやる必要は絶対ないと思いますけど。むしろぼくらは共犯者だから、お互いオーディエンスにはなれないと思う。

———-じゃあ、「あなたらしい」という一言、ということですか(笑)

そう、お互いが共犯者だから。

———-(笑)

ところが純粋なオーディエンスになれれば、即興と無関係な人はたくさんいるわけだから、いろんなものを見聞きしたり、そういう人が即興を見たとき、違和感はあるけど、実に見事な生命感を感じてくれるような即興に出会えたら、その人は一定な評価を音楽にもダンスにもくれるんじゃないだろうか。

だけど、それは観客への誘いであって、教養本的な役に立つものでは一切ないと思う。解釈の余地がない。単純に、知識を得て、経験を得て、人間は新しいものに対する態度を常に持ってて、交換し合っているけど、即興はそれとは全然断ち切られたもの。

だから今のマーケットにも乗らないし、人から評価される必要もないし、またされないだろうし、人の記憶に残るけども記録には残らないだろうし。一切。

そういうことを永遠にやり続けるという、時々みんな考えるだろうなあ、自分のやっていることを記録に残したいとか。そういうんだったら、ぼくもルーティンをつくらないといけないと思うけど、今ぼくはその動機がありません。

———-とても、ある強さの、お話を・・・

ちょっとね、インタビューの記事を見てると、すごくスムースにしゃべっているように書かれているけど、実際はこうやってグタグタガタガタしゃべってるのをまとめてんの?

———-えっと、いえ、だいたい、そのままです。

えー、大変だね。

———-いえ、その、今言いかけたんですけど、このインタビュー全体として、即興に対する、ある種の、強さというのを、これはとても強い行いだな、というのを感じました。

あ、そうですね。ぼくが、声を出してさ、町中に歩いている人に対して言ったとします、突然。ぼくは生きてるぞ、と。どう思います? 変だと思うよね。大声で叫んだら。

もう一つ。ぼくはしゃべらないで永遠に人ごみの中で動いている、妙にずれている。それも変ですよね。

どっちの変を選ぶかとなれば、やっぱり、しゃべらないで、ただ、動いている。町中歩いている人は、強い自我意識を持った体ばかりですから、ぼくは少なくとも即興やりながら自我をどんどんどんどん捨てていく可能性があると思う。

これも付け加えたらいいと思うけど、即興というのは非表現的だと言ったのは、同時に、非自我的だとも思いますよ。とても非自我的な行為だと思いますよ。

———-はい、これはよくわかります。

そうなれば、即興行為は、大声で叫んでもいいけど、しゃべらないで無言でずっと動き続けて、人前に永遠にさらされていないといけないよね。そういう意味では強い。

———-はい。

とても強い。

———-はい。ありがとうございました。

えっ、まとまってない、ぜんぜん(笑)


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