日本音楽即興学会 JASMIM

The Japanese Association for the Study of Musical IMprovisation
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ニュースレター

 シンポジウム「よい即興、わるい即興」

記載:2010年9月20日

シンポジウム「よい即興、わるい即興」

【要旨(大会抄録記載)】
シンポジウムでは普通、複数のシンポジストが選ばれ、その論議を中心に展開されるのですが、今回は形を変え、あえてシンポジストは立てず、参加者を中心に行います。参加者が持参したよい即興だと思われる音源や映像と、参加者自身のなぜそれをよい即興と思うかのコメントを共有しながら、全員でざっくばらんな議論ができることを期待しています。(もちろん、この反対のわるい即興の例の提示もあっても構いません。)若尾 裕

【報告】

シンポジウム「よい即興、わるい即興」

無記名で以下の記号で話者を表しています。
● 司会
◎ サンプル提供者
○ その他の話者

● このシンポジウムにはシンポジストはいないのですが、若尾さん、趣旨説明をお願いできませんか、私は、にわか雇われコーディネーターなので(笑)

○ 去年もこんな話がちょっと出たなあ、という感じがしまして「教育現場での即興の評価」についてハラさんがされて、また「音楽療法での即興」はどうだろう、という話があって、次に進むのは「即興の評価」ってどうなるんだろう、というのはあるわけです。

ここの学会には、さまざまなスタイルの即興、それぞれが進行している、といいますか、自分はキース・ジャレットが好きだ、ビル・エバンスが好きだ、いや、ディレク・ベイリーだ、いや、ジョージ・ルイスだ、いや、そんなやつら全部ダメだ、西洋に汚された即興は全部ダメだ、素朴なのはピグミーだ、とか、いろんなものがたくさんあって、価値観がたくさんあります。

学会という組織で論議していくためには、そのどれが正しいか、ということは、やってもしようがない、不毛な論争なのですが、どっちが正しいかの論争ではなくて、みなさんがどれをもって、何がいいのか、ということです。

正しい即興、間違った即興という言い方ではなくて、よい即興、わるい即興としたのもそこにあります。

みなさんが何を通じて、価値と思っていらっしゃるか、ということを、ざっくばらんに話し合ってみると、そこに何か共通のことがあるかもしれないし、依然としてそれは難しい問題が残るかもしれない、いずれにしても意義があるのではないか。

会員メーリングリストで呼びかけましたが、DVD、映像、CDなどサンプルを持ってきていただき、これはこういう意味でよい、こういう意味であまりよくない、というのをお話していただいて、ここで議論する、そういうことだったのですが、持ってきていただけましたでしょうか?

持ってきていただいた方に、それを紹介していただいて、それについてのコメントというか、どこがよいのか、よくないのか、というお話をしていただければ、と思うのですが。

お持ちいただいている方はどのくらい、いらっしゃるのでしょうか?
(数名手を上げる)

● では、その4人の方に順にやっていただくと。

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(1)サンプル提供者自身のライブ演奏(フリージャズ)
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◎ 変化球的なものを持ってきたのです。いきなり、恐縮なのですが、自分の演奏です。

よいと思うのはいっぱいあるのですが、若気の至りとして、自分ではすごいよかった、と思ってやった。よいと言ってくれた人もいて、演奏が調子に乗っていたときのものです。

それをみなさん、どうお考えになるか、というのをお聞きしたい、というのもあります。

私がピアノを弾いています。後、ドラマーとサックスの3人。実際のライブです。

お聞きください。長いので途中で止めます。

(PLAY)

◎ ストップします。演奏の途中ですが、これで一まとまりです。

これをどう議論したらよろしいでしょうか?

● これ、今、ご自身の評価としては、どうなっているわけですか?(笑)

◎ 自分自身はよかったなあ、と思っていますけど。

一つには、何がいいか? という話になりますね。勢いと、集中力と、3人の絡み合いが。

実は最初のライブだったのですけど。ドラムの人は会ったことがなくて、サックスの人も1回会ったくらいで、集まって、やったのですが、それ以降、何回ライブしても、これを超えると思ったときがありませんでした。

● ということですが。えー、何なり(ご意見を)。

○ 今おっしゃられた、いいところ、というのが、私が思ったことと違っていました。

ドラムとサックスが勢いよく演奏している時、けっこうピアノが冷静であったり、あまり過密ではない状態なのが、多層的で面白いなあ、と思ってきいていたのですけど。

◎ もしかしたら、それは私の性格が出てしまっているのかもしれません。

私は引いて、没入はしているのですが、立ち回りとしてちょっと引いて、考えて、音を出す。

それはあまりよろしくない?

○ そういうわけじゃない。みんながガーッといっているなら、ああ、ガーッといってるわ、という印象じゃないですか。

ガーッといっている2人(ドラムとサックス)がいて、だけど、そこに、ガーッといっていない部分(ピアノ)がある、2つのレイヤーになっているところが、私はおもしろかった。

◎ とりあえず、いい、わるいでいくと?

○ そこが、いいなあ、と。

● その他、何でも?

○ 3人の絡み合いがよかった、とおっしゃったんですけど、どういうところが絡み合いだったのでしょうか? (会場笑) 

◎ それぞれが感じた一体感みたいなものが。

○ 一体感の絡み合いですか?

◎ 難しいですね、自分の演奏を説明するのは。

当人たちとしては、何というのでしょうか、3人でやっても3人でやる意味がない演奏なら意味がないですが、3人でやって3人の音楽になった。

○ 意味があったのですね? 演奏してみて意味があった?

◎ はい。

○ 今まできかせていただいたところでは、私の耳には絡み合いがあまりなかったと思うんですね。

それで、多分3人で一致していたことというのは、美意識が一致していただろうと。

3人がやりたい即興の方向とか好みとか、それはおそらくピッタリ一致して一体感があったのでしょうけど、3人が絡み合っていたかと言うと、3人がそれぞれの個人的な突っ走りをウワーッとやったのが、同時進行しているような。

そういう感じで、お互いをききながら調節していた、というのは、先ほどの重層的、というお話であったのでしょうけど、それ以外の突っ走っているところは、あまり絡み合いがなかったのではないでしょうか、というふうにきこえました。

いいかわるいかは別として。

◎ 違うところを走っている。

○ そうそう、平行にドーッと。

◎ 阪急とJRと阪神みたいな。(会場笑)

○ そんな感じね。乗り換えをする駅がないのね。同じJRでも新幹線と快速と普通がドーッと走っているみたいな。

別にわるいと言ってるんじゃないですよ。

○ 絡み合い、ということでは、絡み合いがあったようにきこえました。

逆に、瞬間的に今コイツが出たから出る、みたいなことを、ずっと繰り返している。

今、口で言うと(スピードは)遅いですけど、演奏中はもっと速く、そういうことが(反応性が)あったのじゃないかな、と感じたのですけど。

◎ それは、すごい、おっしゃる通りのことを、ぼくらは考えていた。

演奏しながら、そこ(反応性)をいかに短くしていくかみたいなのを、 一つの美意識みたいに考えた、というのはあります。

○ 運動性と音楽的要素の連関ということ、ちょっと別の2つの議論があって、多分、今の演奏は、運動性っぽい。フリージャズのスタイルは顕著にそれでできている。その美学でできている、と思うのです。

そちらではそういう共有性、絡み合いがある。

今言われた(絡み合いがない)というのは、話が(運動性とは)別。

◎ フリージャズの美意識を通してみて、判断して、いいと思っている私・・・。

○ いえいえ、そうは、反省的な・・・、言ってませんけど、自分でそう思われるのなら。

◎ はい。

○ 3人がけっこう、きき合っているなあ、と思いました。ぼくは絡み合いに関しては、どうとも思いません。

○ どういうところが?

○ けっこうボリューム的、音数的に間を空けているところで、きき合っていると感じました。

○ 絡み合っている、話が出たのですけど、いい、わるい、との関係がよくわからない。

ご自身が絡み合っているところがいい、と言われましたが、ぼくは絡み合っているからいい、とは思わない。

新幹線と阪急と人力車位でも、それがいい結果になるかもしれない。

○ 美意識をピッタリ共有している、美意識というのが、多分、ぼくたちの、いい、わるい、を決めている物差しだろう。

だから、決めている物差しが、みんな、そろっていれば、それはすごく大事なのかな、と。

先ほど、合っていると言われました。ぼくも合っていると感じました。

でも合わないこともあるじゃないですか。実際には。

自分はいいと思っても、共演者は今一だなあと思う、という食い違いがよくあるけど。

今の、少なくとも3人は、いいよね、いいよね、と思っている、というのは、大事なポイントかなと思います。

● 大事なポイントというのを、もう一言いっていただくと? 何において大事か?

○ 美意識が同じ人たちが集まって、演奏すること。

● (美意識が同じ人が)集まること、それ自体がいい?

○ 誰も不満を持ってない。

◎ 青春物みたいな。(会場笑)

○ 同じいいと思っている、同じところに向かっている。

● (今のお話では)3人が全く価値の尺度を共有してやれていて、かつ、初めてやったこの演奏が一番いい、と3人とも言っていれば、これ、一番いいですか?(笑)

ということに多分なりますよね? 論理的にはそういうことになりますね?

○ きいていると、3人とも美意識を共有して、なおかつ、もともと雰囲気や美意識を共有している。

その共有さ加減を、もっと、こう、打てば響くみたいにしていきたい、もっと美意識において、ピッタリ共有させたい、ということでやっていると思うのですが。

それとは別の、冷静になって、ズレを楽しんでいくのもあると思う。

お互いのズレみたいなものを、もっと大きくしていこう、という演奏もありえる。

回数が増えると、合ってくる、今度はズレに興味が出てくる、というか、焦点自体が変ってくるだろうと思いますし。

ズレているところがおもしろいなあ、と思ってききました。

● フリージャズ的伝統の中で、ある種、その世界の中で何となく暗黙のうちに共有されている、こういうことは、多分含まれると思います。

完全にみんながピッタリ、完璧にできてしまうと、その時点で、実にしょうもなくて、そこで、何かそれを崩していく、ということが求められる。

そういうことはあるという気はするのですけど。

○ ダーッといって、少し静かになったところで(再生を)切ったでしょう。その後まできいたら、ちょっともう少しきいたら、と思いました。

ダーッといっているところについては、ぼくもフリージャズをそんなにたくさんきいているわけじゃないですけど、山下洋輔のお互い殴り合いというか、いうか、きき合って、やり取りする、というのは伝わりましたね。

ただ、山下洋輔のいろんな演奏をきいたところから言うと、手数が足りない。

でも、若い勢いは感じました。

● とりあえず、このくらいで。

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(2)レニー・トリスターノ
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◎ 1曲目だけを、おかけください。

(PLAY)

◎ これはレニー・トリスターノのピアノ。チャーリー・パーカーと同じ位の時代のピアニストですけど、ジャズの歴史にはよく登場する。

ぼくは普段CDはきかないのですが、シンポジウムの話題のためには、これだと思い、持ってきました。

今の演奏は、研究書などを読んでいないので、はっきりとしたことは知らないのですが、何も取り決めがなく、最初トリスターノがピアノを弾いてテンポを示して、後のメンバーは、テンポは守っているが、自由に演奏している、という形態です。

● どうして、いいと?

◎ これは1940年代という古い時代、そのころはビバップの時代。

トリスターノはビバップのイディオム、歌い方をとっぱらって、コード進行もとっぱらって、スウィング感だけを残したらどうなるのか、という実験だった。

もう少し演奏法を変えれば、ひょっとして普通の曲みたいにきこえるかもしれない。

見かけ上は、そんなに、すごく変っている、ということはないかもしれませんが、方法論的に、すごく思い切ったことをした、というところが、いいと思います

それと、ピアニストとして個人的には、そういう方法で、よく一定のテンポとスウィング感が維持できるなあ、と。

それはぼく自身も目指すところで、なんで、どうやったら、一定のテンポとスウィング感が維持できるのか、不思議に思うところです。

でも、今の音楽が好きで、いつもききたいか、というと、全くそうではなくて、別に普段はききたくはありません。

● 好きか嫌いかと、よいかわるいか、の違いは?

◎ 嫌いというのは、秘密にしておきたいことでもあります。

好き嫌いは、ひょっとすると10年後位に好きになるかもしれませんし。

その時の自分の状況に応じて、けっこう変るものですから。

いいというのは、ある論理性があります。ある程度。

好き嫌いは、自分の都合によって変るかもしれない、というところが違うと思います。

● いいかわるいかは、自分のなかで、完全ではないにしろ、ある種の一貫性がある、という理解でいいのかしら?

◎ はい。

● 人間の感覚を超えたところに、いいかわるいか、がある?

◎ 感覚に関しては、ぼくは自分の感覚は非常に疑わしいと思っています。

● 好き嫌いは、疑わしい感覚に直結する?

◎ はい。

○ 論理に対しての感覚ですか? 論理も含めて感覚?

◎ あんまり、それらの言葉自体の説明はできないです。

● いいわるい、は10年後もそう変らないだろう、ですか?

◎ ・・・はい。30年前位からいいと思っていました。

● (笑)

○ さっき、この1940年代という古い時代のレコーディングで、こういった実験的なことをした、とおっしゃいました。

その時代だったので価値があるのですか? 今これをやったところでいいとは思わない? その時代にやったからでしょうか?

◎ そこはわからなくて、歴史的に意義立てできてこそ世界に知られて残っています。ちょっと比べられない。

歴史上の出来事で戦争がいつあったとか、みたいなところがありますし。歴史に残っているから、ということを、ことさらに理由付けしているかどうかは、わかりません。

○ ぼくもこれ、すごいいい、と思います(笑)

なんでいいと思うか、考えていたのですけど、それは多分、スタイルにはまらない、はまりきらなさ、という自由さが残っている。

なんか新鮮。

古い時代の演奏ですけど、ビバップの乗りなんですけど、明らかにビバップから離れています。

コードもスケールも違うことを自由にやっているところが、すごいなあ、と思って。

おさまっちゃうと、面白くない。そこかな?

● 面白い面白くないが、いいわるい?

少なくとも、(前者は後者の)部分を形成する、と取ってもいいのかしら?

○ それしかない。

● それしかない、と(笑) 一つ、何か出てきましたですね(笑)

○ 好き嫌い、面白い面白くない、いいわるい、と3つのうち、いいわるいは、他を納得させるだけの意味合いが、ニュアンスとしてある。

◎ (面白いと、いいの関係について)言い直します。面白いけど、わるい、というのがあると思います。

● (笑)ということは、さきほどの言葉を撤回された?

ここで撤回されると、もう一つ面白くない気がする(笑)

○ ビバップの時代なのに、と言われましたが、ビバップも前の時代からすると新しいものでした。そのビバップはいいと思いますか?

ビバップも歴史的に新しくて、今も残っている。意義のあるものだと思いますが。

○ それはビバップというジャンルが、いいかわるいか、ということになっちゃっていて、個々の演奏がどうか、とは違う。

○ 言い直します。ビバップを最初にしたような人の演奏はいい?

◎ ・・・個人的にはビバップもずっと勉強しています。今もしていますし、今からもある程度はすると思いますし、ビバップがいいかわるいか、というのは思いません。

● 個別に。ビバップの草創期の、どういう人でしょうか、そんな人の演奏は?

◎ わかりません。何とも言えません。

○ 今の演奏は、ぼくは初めてきいたのですけど、歴史的な意義とか経緯は別にして、今きいても、いい即興だと思います。

それ以降、ジャズでは何でもあり、というか、自由な時代を経ているから、さきほど言われたように、今この演奏をきくとどうか、というと、われわれは自由な時代を知っている状況なのですけど、それをとっぱらって、単純に今の演奏がいつの時代であろうと、今のセッションは、自由で、お互いをききあって、カンバセーションが成り立ち、個人的な経験のバックグラウンドが何にしても、いいと思います。

○ その時だけ、いいわるい、じゃなくて、歴史的に残るのが、いいわるい? 歴史って?

○ あらゆることは歴史的でしょう。この当時はこれがよくて、でも消えちゃって、というのがたくさんあって。

すべてが、そうでは(歴史的では)ないですかね。

● フーコーの性の3部作、あの辺りに書かれたことで、後の時代、それぞれの人間たちが、都合のいいように(歴史を)構成していく部分が必ずある。

例えば、19世紀にバッハの再評価が起こって、今のようにバッハが神様のようになっていくとか、そういうことは常にある、といえばありますね。

歴史の評価というのが絶対的に動かないものというわけではない。

さまざまな力関係、その時々の思惑の係わり合いのなかで歴史のある部分が浮上してくる。

今の演奏が、レニー・トリスターノである、ということ自体が一定の意味を持たないことはない、と思う。

つまりジャズピアノを勉強している人たちにとって、大概、レニー・トリスターノは一度位は通るんじゃないかな、と思うのですが? 

一般のジャズファンと比べて。そんなことないですかね?

◎ ないと思います。

● (笑)(笑)ないですか? わかりました(笑)

○ 勉強した人の、いいわるいは、勉強していない人の、いいわるいより、よりいい、というのがあるかもしれませんが、やや疑問があります。

● じゃあ、先ほどの撤回なされて、その撤回理由を示すネタをどうぞ。

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(3)ディレク・ベイリーとミン・シャオ・フェンのデュオセッション
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(PLAY)

◎ よい即興という部分と、わるい即興という部分の両方を兼ね備えていて、面白いけどつまらない、面白いけどよくない、という例としてみたいと思います。

わるい点はどこか、というと・・・。

明らかにこれは、ミンが中国の伝統音楽のバックグラウンドとテクニックを持ってこの場に現れていること、それはそれでいいですけど。

一方、ディレク・ベイリーはどうなのか、彼は西洋音楽のフリーインプロヴィゼーションというランゲージを持ってこの場に出てきていること、つまりお互いが、それぞれのカルチャーとバックグラウンドを代表して出てきている、そのマッチなのに、自分たちはフリーというゼロ地点に立っているという自惚れです。

まず、それがわるい点です。

いい点は、でも、この2人が合致する地点を目指して、自ら背負っている殻から出ようという努力の後がある、これはよいと思います。

これをきいてみて、確かに丁々発止とやっている部分は面白いです。

でも、これ即興全体は、どちらかというと、それほどよくないです。

以上です

続けて次の音源を、ちょっとだけ。

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(3′)ピグミーの歌唱
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(PLAY)

◎ ピグミーのポリフォニーですけど、実に自然です。

なんか、誰かがしゃべったかと思うと、突然パターンを始めて、あ、それもいいか、という感じで、だんだん、よってたかって、しゃべりだして、そしてポリフォニーができる。

その方法が自然である。

これを理想化する、だから、ピグミーが素晴らしい、とは言えないのですけど、汚染されていない、というか、先ほどのような矛盾を抱え込まなくて済んでいる。

これを即興であるかどうか、というのは、パターンのバリエーションであると言えば、その通りですけど、そういう部分があるものとして、対比的に提示しました。

以上です。

● ということです。何なりと。

○ 自然な、というのは?

◎ ちょっと、うっかりとした言葉を使いましたけど(笑)

人間にとって音楽での自然はあるのか、というようなことになりますけど、自然といっても、工業化社会においての・・・。

○ わからないです。

◎ 音楽を成り立たせるための疑問を持たない。それほど疑問を持たないで。

● ぼくの勝手な推測ですが、言語の習得が、あたかも自然になされてしまって、われわれは音声言語を自然に扱えてしまうわけですよね。

実際には、いわゆる自然ではなくて、社会的文化的な構築なんだけれども、話言葉に関しては、かなり自然なかたちで、2歳、3歳で土台ができちゃって、あやつれている。

それに近いところで、こういうピグミーのポリフォニックな、裏声交えた、歌唱というのがポッと成り立ってくる。

(母国語と)外国語をどこかで折衷しようとか、余計なことを考えて、ベイリーたちの演奏では。

(ピグミー歌唱は)そうではないところで、成り立ってしまっている、そんな感じかなあ、と思うんですけど。

○ 観念的に、こういう試みをしよう、というのがないわけですよね。

◎ まあ、もっとつっこまれる(言葉を使う)としたら、罪がない。(会場笑)

○ ピグミー自身は自然だとは思っていないかも?

◎ だから、文明国民がそういったノスタルジーを投げかけている、音楽を成り立たせることに対して疑問が少ない。

疑問が少ない方が、いいかわるいかは、別として。

○ 私の中にはあんまり(ピグミーの歌唱をきいて)ノスタルジーはないので、どのように自分を納得させればいいのでしょうか? (会場笑)

◎ 対比のために出しただけで(ピグミーの歌唱を)理想化する気はないです。

いいもわるいもない、と今は捉えるしかないと思います。

○ ベイリーの演奏を際立たせるための材料になっている?

◎ まあ、そんな感じです。(会場笑)

それが、わるいか、というと別。

○ (ピグミー歌唱は)(1)のフリージャズの美意識を共演者が共有する、というのと、あんまり違いがないのでは?

こういうのをやりたい、という意味の自然さ。

非西洋の音楽だから、というのとは別では?

● これは多分詰めていくと、かなりの音楽は多分トライバルなもの、というか、わりと限られた人間たちのうちで共有されている、もともとね。

そんなに、それを乗り越えていく音楽というのは、実はそう多くはなかったと。

音楽は国境のない言語だ、とかいう、でたらめなことを言い出すのは、西洋近代の国民国家の時代。

本来的には(音楽は)かなりトライバルなものと思ってもいい。

そういう意味では、フリージャズ(をやる人)というのは、実にマイノリティーなトライブなわけで。

そういう意味じゃあ、確かに、非常に重なるんだと思うの。

ただ、そこのところで、フリージャズをやるぞ、という、彼らは、ぼくもフリージャズやってたから、ようわかるんですけど、やるぞ、という、かなり強い自意識というか、自覚があるんです(笑)

自然、ということについて、そこまでの強い自意識を持って、よし、ポリフォニー歌うんや、とかね、そういうことは、多分、ピグミーの人たちには、そこまでのものはなくて。

もちろん、日常の発話行為と、歌唱的な行為には、概念的には、ピグミーの言語でも区別があるから、やっぱり、そこでは別のモードの発声行為という意識が当然あるんですけど。

そこが、こういう(フリージャズの)トライブの連中とは違って、なんか、もっと、すっと、いってしまえる、というか、そこを指して、自然と呼んでいいんじゃないかしら。

○ 今、音楽の世界で、その、自然に、とか、そういうことを考えずにすむ人がどれだけいるのだろうか?

◎ (3)の2人が、異文化の対決、異文化の出会いを売り物にしている、という感じでやっていて、2人がそれを意識してやっているようなのが、イヤ。

よくない。

○ ノスタルジーの話ですけど、それ自体が、いいわるい、じゃない。

ぼくは、ノスタルジーって、いいなあ、と思うのです。気持ちとして。

人にきかれる、ということを抜きにしたら、疑問が少ない、という状態で演奏する、というのは、本当いいなあ、と思います。

ちっちゃい子が、いろんな楽器で何か音出して、夢中になって遊んでいるのとかって、なかなか大人になると、そんなに夢中になる感じ、あの年頃の子が持っているもの、って、オレはもう失ってしまったなあ的な。

それを見て、いいなあ、みたいな、気持ちはあります。

人にきかれる、とか、人から見て、それがどうかは、わかりませんけど、そういう、気持ちなれるのは、よい、に入れたいです、ぼくは。

○ ノスタルジーとか、音楽をやっていて、そこに自分が入り込む、先ほどのフリージャズの3人、ガーッといっているとき、音楽そのものに一緒にいっている、あの感じはいい。

そのノスタルジーがいい、というのは、すごい賛成です。

○ 自然というのは、疑いがない、それに対して、いやらしい西洋音楽のわれわれという構図は疑問です。

西洋音楽の中にいて、何か意図してやろうとかられている人はそう。

ぼくが考えたいのは、Jポップとか、それが周りで鳴っている、それが自然なんです。

例えば、Jポップきいてバンドやってみようか、というのが自然。

何か新しいことをやろうとするから、いやらしいわけであって、疑いなくJポップやろうか、みたいな。

ピグミーの人は、音楽に対しての意識は、新しいことをやろうとしているわけじゃない。

西洋音楽の中で育った人だって、別の自然に生きている、と考えたいです。

○ いやらしくたって、それがわるいとは言ってない。

いやらしい、というの、それがまたいい、というのだって。(会場笑)

自然なだけで、どこがいいのよ、って。(会場笑)

○ 自然なものはつまらないかもしれない。同じことをくりかえしているだけかも。

ぼくらが育ってきた音楽環境のJポップを再生させても、また面白くない、というのと一緒かもしれない。

◎ それは現実にアフリカ社会で多分起こっていることで、ピグミーの人たちも、どこでもFMを通じてきけるようになって、ポップスとか。

あれ(ピグミー歌唱)は、ちょっと古いんじゃないか、という感じで。

やっぱり、ドラムス、ベースが入ったのポップスをやろうよ、って変ってきているのは確かなこと。

一種のグローバリゼーションが起こっているわけ。

感覚的なノスタルジーにそのまま頼ると、ぼくから見れば、資本主義の奴隷になっちゃう。

グローバリゼーションが待ち構えている。

● 即興のインフォメーションから離れるかもしれないですが、そういう資本主義のようなものは、確実にわれわれの感覚を制御するわけで、そういうのから、完全に逃れるのは不可能。

そういうことを、どこかで意識しておくのは大事。

このようなことを、考えておく。

多国籍企業たちの仕業というのはたくさんあって、それぞれに、それぞれの母体があるから、成立した国の色合いというのが、出ないことはない。

巨大音楽産業資本もそれぞれに成り立つものが、ちょっとずつ違ったりするが、かなりのところ、同じような色に(われわれを)染めていく。

それに対して、どういう抵抗をなしうるか、これから先は、そこらが流動化しそうな気配がないこともないかな、と思いますけど。

即興の評価、というのも、それこそ、巨大音楽産業資本的即興の物差しに振り回されると困る。

○ 学会の運営上のことですけど、音楽即興コンテストをする可能性がありますけど、審査の問題が関わる。

今のように論議上で、いいわるい、について多様な論議ができていますが、コンテストとなると、どうすればいいのでしょう?

○ それこそ評価用紙を作くなくちゃ。

● 学会が世界の即興の評価を支配して、標準化してしまえばいい(笑)

われわれの方が、グローバルな権威になる。(会場笑)

○ もうちょっと具体的に、実際に採用できるような方法は?

○ 審査員方式。武満賞のような。審査員は毎年一人だけ。

その人がいいといえばいい。

それならコンクールに応募する人も納得いくのでは。

○ 審査員選びが?

○ 応募する方も審査員を見てするでしょう。

○ 第1回目は、例えば、寺内さんとか? 大丈夫でしょうか?

○ 誰も応募しないでしょう。あんなヤツに審査されたくないよ・・・。(会場笑)

○ 審査員フィーがかけられないですが。

○ 5人で話し合って、民主的はつまらない。

○ コンクールは定量化ですね。

いいわるい、の定量化という面で、近い議論だ。

● それがめんどうくさいから一人の審査員(笑)

○ 以前、審査員になったことがある。

10数名の審査員全員がきいて、それぞれがチェックシートに記入する。

いろんな項目それぞれが5段階評価で。

チェックシートをどうするかが、問題になる。

● 大仕事ですね。だから一人にやらそうと(笑)

○ 大人数で評価するのは難しい。

わるい場合、特に、難しい。

ゲスト審査員がいれば、評価軸に色合いがでてきて、大人数でも一つの色合い、価値観が出てくる。

そうじゃない場合は、お互いが牽制しあう、民主的になるとつまんなくなる。

また、ビジネス的な問題になってくる。ライブになると、見栄えのするものを入れないといけなくなるとか。

ある程度の個人的意見を際出さないと面白くない。

● 審査員が多いと、5段階チェックシートがすっきりする。作るのが大変だが、客観的に見える。

あるいは個人的なブラックボックスにしてしまう。

どっちかでしょうね、恐らくね。

○ 多人数で数量的評価をすると結果が凡庸になる、いびつな人が排除されてしまう。

全体に何となく評価がある人が選ばれて、欠点もあるけど、いいところもある人が選ばれない。

突出した部分をどうやって取り出すか? 今回はこういう主観でいくんだ、とか。

● 一人の審査というのは、どうでもいい話ですけど、うちの大学が、優の上に秀という評価を作ろうと。

ぼくは逸、逸脱の逸ですね、度外れている、すごい、いいかわるいかは別として、逸脱している、標準から度外れている、秀みたいな、しょうもない評価を作るんじゃなくて、逸を作るべきだ、と言ったのですが、当然無視されました(笑)

そういうのって、あった方が面白いかも。ま、どうでもいい話だったですが。

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(4)和太鼓と西洋楽器のデュオセッション
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◎この2人を初めて録音で聴いた時は、これすごいって、思ったんですが、実際ライブの現場で見たら、即興としては、わるい即興だったのです。

(PLAY)

太鼓も音楽的に面白い、飽きない、引き込まれる、と思ったのですが。

見ていただいたらわかるのですが、2人の関係が一方的、カンバセーションや絡み合いがない。

太鼓で一つの音世界が出来上がってしまっている。

音楽としてはすごく好きだけど、即興としてはわるい。

組み合わせは面白い。

が、果たしてデュオとしての即興としてどうかというと、わるい、と。

太鼓の人はもうひとりの人を見ようともしない。力が強い、音量がでかい、他人を聴いている場合じゃない、みたいな。

異種類が歩み合って音楽的に面白いが、力関係が固定している。

イーヴンな関係じゃないな、と。

○関係が一方的だから、即興としてわるいということですね。

将来、関係が柔軟になると、もしかしたら、音楽としてはつまらなくなるかもしれないけど、即興としてよくなる?

◎はい。

こういう立場で私が演奏すると、フラストレーションがたまるだろう。

○太鼓の人もきいているように見えるが?

○反応しているように。

◎コンプレッションが強くかかっているので録音上そう聴こえるのかも。

太鼓には右左の手のコンビネーションがあって、その肉体的な奏法の制約から、パターン的なリズムになってしまう。

○和的なリズムの特性、というのが、即興のあり方に関係するのでは?

●特性とは? どう関係して?

○即興性にはつながらない部分があるのでは?

他の楽器と共演するときに、即興につながりにくいと、リズムの特性として。

◎打楽器に限らず和の音楽はそう。

○テンポルバートするのは別として、確かにロック的。

◎インテンポで即興したらいけないことはないけど、テンポが限られる。

延々とパターンが続く。変化をつけるのが難しい。

●この例は、ミュージシャンとしての評価が顕著に出ていた。

◎みなさん、ミュージシャンではないですか?

●きき手としては、演奏は、よかった。しかし、共演者として、実際自分が加わってやるときには別の評価という。

○笙と共演したとき、言われたことは、スタッカートやグリッサンドはできません、やりません、楽器が傷みます、師匠に破門されます、と。

フワーッと入って、フワーッと消えるしかしない。

破門される危険を犯してまで即興できない。

さっきの(3)の、わるい例ですが、素人がやっているのじゃない。

伝統やスタイルをものにしている人、ちゃんとしたものをもってないとつまらない。

◎精神の自由というか、それを期待したかった。日本人の中にある境界を越えられるか。

別の和太鼓の方に聞いたのですが、古い伝統楽器の方が実は現代音楽とのコラボを経験しているそうです、尺八とか。

和太鼓というのは新しいジャンルで、戦後、60年代、70年代に発展して、現代音楽とのコラボの伝統があまりない。

期待されているものが、力、男、汗、褌。

だから、現代に生まれた和を期待される。だから難しい。

今の和太鼓の世界は自然じゃない、ある意味、いやらしい、商業的な和を追求するもの、人工的に作られたから。

● このシンポジウムの話題は、まとまるわけのない話で、いろんなことがでてくるのが狙い。

なんか、かんか、出てきたから、それじゃあ、いいんじゃないかなあ、と思うんですけどね。

なんか、まだ、一言、吼えとくぞ、と思われる方は、一言だけ吼えてもらってもかまいませんですけど。

○ ニャン(会場笑)

● じゃあ、これで、おしまいといたしましょう。

拍手・・・

(文字起こし・編集:歳森彰)

—————–USTREAM—————–

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~閉会の辞
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