日本音楽即興学会 JASMIM

The Japanese Association for the Study of Musical IMprovisation
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ニュースレター

 角正之さんにインタビュー#1:ダンスと音楽の関係

記載:2010年12月28日

JASMIMレター0021(2010.12.28)
[角正之さんにインタビュー#1:ダンスと音楽の関係]
インタビュアー・編集:歳森彰
インタビュー日付:2010.12.24

今回はダンサーの角正之さんへのインタビューです。
ダンサーからの視点がうかがえます。
どうぞお読みください。

本文

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JASMIMレター0021(2010.12.28)
[角正之さんにインタビュー#1:ダンスと音楽の関係]
インタビュアー・編集:歳森彰
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インタビュー日付:2010.12.24

今回はダンサーの角正之さんへのインタビューです。
ダンサーからの視点がうかがえます。
どうぞお読みください。

———–(インタビュアー) JASMIMレターで一連のインタビューを配信しているのですが、なかなかメーリングリストでご意見は出にくいです。インタビュー形式でご意見を引き出せるかな、と。今日の話題は、ダンスと音楽の関係、というのと、角さんが考える即興、というのと、来年の音楽即興コンテストについてです。

———-まず、ダンスと音楽の関係についてです。ぼくは角さんとよくワークショップなどをご一緒させていただいていますけど、角さんはコンテンポラリーダンサーで。

(角正之) そうですね、基本的にぼくはモダンダンサー出身だから、ここはダンスの専門的なことだけど、モダンダンサーというのは基本的に2つの行為をしなきゃいけないんですよ。ダンスの実践と、ダンスの創作です。

それに対してコンテンポラリーダンサーは、ダンスの創作を日常化しないといけない。日常化するということは、即興も含めて、いつもダンスしている状況で、動きのアクチュアリティーを持つ、現実に持つことです。作品をつくることだけがダンサーではない、ということを、コンテンポラリーダンサーは意識として持ってなきゃいけないね。

———-はい。そういうダンサーでおられるわけですけど、角さんはダンサーなのに、音楽をとても、何というか、我がことのように考えられているように見受けられるのですが。

それ、いいね、我がこと、というの(笑) (音楽を)我がことのように考えないのが、基本的にダンサーだった、とぼくも理解してる。

———-あー、はい。

ぼくも多分そうだったと思いますね。最初は。

———-最初は。そういうのはどうしてですか?

そこはとてもいい観点だと思うけど。ぼく自身のヒストリーというのを語らないといけなくなるよね。そこはまあ省略して。

———-どうして音楽なんですか?

ぼくの先輩たち、というか、優秀な舞踊家たちが、バイオグラフィーで語っていたことに気づいたんだけどね。例えば、多分ご存知だと思うけど、バランシンというニューヨーク・シティ・バレエ団を作った人、彼は、すごくいいコレオグラファーで、いい舞踊家なんだけど、彼が言ってたことに、ダンスは音楽を内在する、と言ってる。ダンスは音楽と共になければダンスではない、と。

———-はー。

これは一つのアイディアだと思うんだ。ぼくの中にも着想としてはあった。ところが、ぼく自身がそれに気づいたかと言うと、気づいてなかった、長い間。音楽を道具のように使っていたから。

———-道具ですか。

コラージュしたり、貼り付けたり、勝手に再生音楽を使って、自分の寸尺に合うようにしてた。

それだと何にも音楽の全体を理解してない。何で舞踊家が音楽の作品を勝手に使えるんだろう。一つの最初の疑問だよね。

それともう一つ大事な疑問は、それをずっとやってきて、震災に合って、初めて、自分の動きの発想の弱さに気づかされた。その弱さというのは、人間が生きている限り続けるかもしれないダンスがね、あんなふうに、死が当たり前のようにある現実が出現してくると、自分のやってることが、どっちに向かっているのか分からなくなった。 死が現実のように見えてくると、今あること、今ダンスをしていることに対して、全てのものを受け入れなきゃいけない、というふうになるわけ。

それ以前はね、自分の独善的なダンスの方からだけ見えているもの(音楽)ばっかり選んでいた。逆に考えないといけない。全てのもの、命を表しているもの全てがダンスに向かうという。そうやることが大事じゃないか、当たり前じゃないか、ということに気づいた。

たまたまぼくはダンサーであるけど、ミュージシャンであってもいいわけですよ。ダンスも見えてくる、動きが見えてくるだろう、体を誠実に扱えればね。

ダンスも音楽も基本は体だと思う。生きている体だと思う。生きている体を扱える人ならば、たまたま自分の専門が音楽的、たまたま自分の専門がダンス的、どっちから捉えても、体から見れば互換性があるものじゃないかな。

ぼくはダンサーだから音楽に対して、とてもリスペクトがあるわけだし、体を扱うぼく自身の、動きへのアクセスです。

それは、ぼくは美術家に対しても一緒。ダンスから見える、生きている体から見れば、感じたもの、音楽が体の中に素直に入りやすい、ということです。

———-音楽に対するリスペクト、それだけじゃなくて、ダンサーから見て音楽にはダンサーが扱えないもの、例えば、うらやましいもののようなものはありますか?

例えば、ピアニストがピアノを弾く。ピアノの持つ再現能力の高い、音への、何と言えば、音を引き出す力、それは、訓練を通してやってきたものには違いない、フィジカルに、ピアニストが。

しかし、ピアノという楽器が音を内在しているのは事実で、ピアニストが引き出すピアノの最大値みたいなものに、永遠に自分の照準を当てることのできるワークを持ち続けること、これは非常にうらやましいと思いますね。

でも、体はいつも滅びていく、どんどん少なくなっていく。

———-少なくなる? 滅びていく?

ピアノは増えていくと思う、ある時までは。ダンスもそうなんです。ある時までは、若いときは、ある時まではものすごく増えていくんだけど、ある時から、それ以上増えていくことはない。関節が痛くなったり、筋肉が落ちたり、年齢と共に持久力がなくなったり。

それまでは、熱量的ポテンシャルを貯めこまないとできないと思っている。ところが、ある年齢がきたとき、そうじゃなくて、もともとあるものに気づけ、となる。

ピアニストだって、ピアノが持っている音そのものに、音を内在するピアノの力に感じる、力を感じればいい。弾こうと思ったらダメ。

同じようなことをダンサーも、ダンスを動こうと思ったらダメ。自分の中に動きはあるんだから、気づけばいい。自分から熱量を出してポテンシャルを上げて、ダンスを増幅していくような時間ではなくなる、ということ。そうすると初めて自分の体にもともとあったものに気づくようになる。

———-それはある意味、ミュージシャンは、その滅びに気付け、ということでもあるんですか?

そういうことね(笑)

———-はい(笑)

ピアノが人間に対応してるんじゃない、ピアノは音に対応してるだけ、いいピアニストはただ音を引き出す。引き出すため身体をタッチの道具にしている。身体は人間の形じゃなくて、人間の形が広がったものを、ピアノの上に、表面にかぶせているような気がする。

指で弾いている、というより、もっとピアノの全体を知っているんじゃないかな、とぼくは思うのね。

———-知るべきだ、と。

知るべきだ、とは思わない(笑) ただ、いいピアニストは・・・、そういう音をぼくは何度もきいたことがあるし、なるほどなあ、と思ってますけど。

体のことを考えれば、ぼくは体のことについて、やっとそういう言い方ができるようになったけど、ピアニストも体があっての、音をつくり出す、引き出すものでしょう。そういう意味。

そこが、ぼくが多分、歳森さんとずっとやってきた、フレンドリーと言えばフレンドリーだけど、出会いというものがあって、偶然のチャンスには違いないんですけども、継続できるとすれば、そこのところに対して、誠実なあなたがいることと、ぼくも人に対してそういうことを気づいている、自分自身を含めてね、それができるようなこと。

———-その他の観点からはいかがでしょう? 今言われたのは、体の持つ、だんだん失われていくような、そういった性質を、音楽の側も、体得していくのがいいと。他の観点、他の言い方、別のことは?

音は共鳴だし。

———-透明?

共鳴、共鳴。

———-あ、共鳴。

共鳴であり、響きそのもの。ということは、音がきこえた、音が耳の中にも、雰囲気として感じられる、というのは、多分、ある空間の中で、共鳴し合った音を、自分の外から中に取り入れたか、中から外へ共鳴、バイブレーションしたか、どっちかだと思う。

音はすでに誰かがつくろうと、発信者と関わらず、音は体以前に満ちている。だからミュージシャンは体以前に音がすでにある、ということを知っているのではないか、と思うんです。

ダンサーはいちいち動きをつくらなきゃいけない。動きと自覚的に付き合わないといけない。でも、音楽はね、体というものを実感してくれる人、音楽家、才能のある人、能力のある人、感覚のある人から見れば、この宇宙、この世界には音が充満している。

ダンサーはそんなふうに考えたことはない。体というのはもっとドメスティック(*ある域内的)だから、自分と付き合わざるをえない、さっきも言ったけど、滅びになっていくことを、現実味として考えないといけない。

音楽家はもっと、過去も未来も、今も、いっしょこたにつながったような音が、この世界に広がっているのを、ものすごく、ポリフォニック(*複層構造的)に選び取ることのできる能力のある人と思う。その意味では、とてもうらやましいよね。

———-さっき言われた、体がだんだん死に向かっていくようなもの、ではないような・・・扱い方・・・

も可能。だからミュージシャンは多分人間の体がなくなっても、最後の、自分の命の最後の音まで、なんていうか、引き出せる力があるし、引き出した人は、自分の命と引き換えでも世界を幸せにできるんだ、と思う。

ダンサーはできません(笑) 動きの人は、人を幸せにするなんてことはあんまり可能性が少ないと思う。動きは自分とのコンタクトだからね。

———-えっと、じゃあ、今のところで、2つの、両面のことが出ましたので、次の話題の、角さんにとっての即興、に行きたいと思います。


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